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高嶺の花

はじめまして

この一文から始めさせていただきます。

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高嶺の花という言葉がある。

遠くからただながめるだけで、手に取って自分のものにすることができないもののたとえ。
精選版 日本国語大辞典

国語辞典で引くと上のように出てくる。特に恋愛などにおいて、外見が整っており性格のいい才色兼備の異性に対して用いられることが多い言葉である。

人間は釣り合った人間としか一緒に生きていけない。高嶺の花とお付き合いができないのは、釣り合うだけの人間ではないからだ。才色兼備は才色兼備と付き合うものなのだ(例外的にダメ男製造機的な高嶺の花もいる)。つまり、付き合うためにはそれに見合うだけの人間になるしかないのだ。

人間というのは環境によって変わるし、逆に人間が変われば環境が変わる。大体の人は中学校までは住んでいる地域によって決まるが、高校以降は学力やその他の能力が同じような人が集まる。大学や会社に進んでもそれは変わらない。つまり、釣り合った人間が集まる仕組みになっている。

そういった意味では、中学までの地域という概念は自分たちの親世代が釣り合った人間として集まったコミュニティといえるだろう。生まれてから死ぬまで、私たちは釣り合った人間と一緒に生きていくのだ。

例え高校まで同じでも、社会人になってから片方はパートの最低賃金で働き、片方は外資系で年収1000万超にでもなれば、次第に疎遠となるだろう。そして、パートはパートで、1000万超の人は富裕層とコミュニティを作っていくことになる。パートの人間が急に富裕層のコミュニティに入ってもすぐ浮いてしまうだろう。そこに入りたければ、そこに入るだけの人間になるしかないのだ。

たとえ、うまく取り繕ったとしてもすぐにボロが出てしまうだろう。ボロを出さずに数年コミュニティの中にいるとしたら、それは完全にそのコミュニティに属することができるだけの人間になっているだろう。

お付き合いする相手や進学先、就職先、転職先において高嶺の花というものがあるだろう。そこで指をくわえて見ているだけではいつまでも高嶺の花なのだ。自分磨きを怠らず、高嶺の花に見合うだけの人間になれたものだけが、手にすることが出来るのだろう。

私自身、高嶺の花に挑戦しているところだ。どうなるかは分からないが少しでも届くように自分を磨きあげていきたい。

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手の届く範囲にいるあなたが

幸せでいることを願います

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