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熱球をひとつだけ

知人に誘われて、私は詩人による朗読会に参加した。ホテルのロビーのようなスペースに聴衆30人程が集まり、壇上にはふたりの著名な詩人がいた。

詩人は、雑談をまじえながら自作の詩を朗読する。そのたびに、聴衆は拍手する。

忖度と言おうか、耐え難い時間だった。こちらが恥ずかしくなるのだ。詩と詩情は異なるものであると、その時はじめて私は気づいた。

後日、書店で現代詩が掲載されている月刊誌を手に取ってみた。やはり無理だった。

誘ってくれた知人の手前、私は朗読会を退席できずにいた。時間を割いてわざわざ来たので、何かひとつでも糧になるものを得たいと思った。

詩人は言った。「齢をとって良かった。若き日のぐちゃぐちゃとしたあの苦しみはもう、ないのだから」。

熱球をひとつだけ、私は持ち帰った。詩人の著作を読むことも聴くことも、その後なかった。ただ、30年前の熱球は赤血球とともに今もからだを巡航している。

一時期、自殺者が年間3万人を超えたとメディアが騒いだ。社会に欠陥がある、何らかの手を打たなければ、と。しかし、1億2千万人の国民がいて、1年間に3万人しか自殺しない、という見方もできないだろうか。

生物とは何か。生物としての人間とは何か。

「生きている」ことは耐えられるが、「生きていく」ことは耐えられない。それが私の若き日のぐちゃぐちゃであり、今も襤褸ぼろを引きずっている。

生と死は、類型化できない。

死はもっと多様化すると思う。ジェンダーが男か女かにこだわらなくなるように、安楽死や尊厳死が認められ、何が自殺で何が自殺ではないか、定義も境界も変わっていくだろう。

若き日のぐちゃぐちゃは実に苦しい。

朝を迎えるのが苦しかった。少しずつ空が白み、一日が始まる。人々は動き始める。罪悪感、虚無感、自己否定。

齢を重ね、朝を迎えることに、窓から光が射すことに苦しみはない。今日は何を料理しようかと考える。乗り越えたからではなく、一歩一歩、人生の残り時間を縮め、着実に死に近づいたからである。でも、膨大な時間を残しながら朝を迎えなければならなかった苦しい若き日々を、忘れてはいない。

クリスマス・ソングが流れている。年の瀬の華やいだ空気が街を包む。私たちは知っている。煌めくイルミネーションに愛を囁く恋人たち、買い物や食事を楽しむ家族たちの街角に、暗く冷たい部屋の片隅で膝を抱えてうずくまる、子どもや若者がいることを。

図太くなった私は、自らを嗤うしかない。どこまで過去を遡っても、回帰する原点は見つからない。あらかじめ奪われているのだから。あるとすれば、未来にしかない。

人生は実験になった。こんな私がどこまでできるか、からだとこころを使って実験する。実験なので、失敗してもいい。

生きるために、生物ならば全力で逃げる。片腕をもがれても、地の果てまでも。生物として生きてみる。きっと死はやさしく訪れる。

寒波に震える休日に。

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