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■大河ドラマ『光る君へ』第25話「決意」感想―そして、僕は途方に暮れる

えりたです。
大河ドラマ『光る君へ』第25話の感想です。

いやぁ、第25話もいろいろ盛りだくさんでした。行成さまが超ブラック企業にお勤めなシゴデキ官吏だったり、ロバート実資さまが鸚鵡ちゃんに異世界転生してたり、公任さまが超公任さまだったり。

マジで見どころだらけ。

そんなこんなで、定子さまと一条天皇の悲恋に沸き散らかしている第24話の感想はコチラです。

ではでは、第25話の感想に行ってみましょう♪


■今日の中関白家

道隆さまが天に召されてから2か月。物語内の歳月で言えば、二年半ほどになりましょうか。

実はそれだけの年月しか経っていないのに、定子さまは出家されてしまったり、伊周さまと隆家さまは地方左遷を喰らったり。中関白家の急転直下具合があまりに容赦なく、時間感覚がバグってしまいます。

第25話では、中関白家の兄弟が3人とも描かれました。そして、その物語は兄弟3人の分岐点をはっきりと見せてきたのです。

■リアリストは立ち回る

帰京の許しが出た瞬間、出雲国から中国大返しをぶちかました隆家どん。相変わらず、朗らかで健やかで、雄々しさに溢れています。そんな彼が、時の権力者であり、叔父である道長どんに

「政(まつりごと)がしたい」

とはっきり告げます。
そうして、出雲での実績と共にがんがん自分を売り込んでいくのです。このスタイルは、たとえば、はんにゃ斉信さまにも見られるものであり、当時の貴族のデフォルトだったのかもしれません。

そう考えてみれば、これは隆家どんが末っ子さんだから、言い換えれば、生まれたときから家を継ぐ路線から外れている次男坊だったからできたことなのかも、とも思うのです。

次男坊にとって、実家は後ろ盾にこそなれ、自分にとってはそれ以上のものではなく。のし上がるのであれば、自分の思うような人生を歩むのであれば、己の力でのし上がっていくしかない

兼家パパりんの次男坊であった道兼どんがそうでしたよね。兼家パパりんに自分の力を認めてもらいたい。だから、汚れ仕事も全力でやっていた。そうでもしなければ、自動的に「家」は兄道隆さまのものになってしまう。

ただ、隆家どんは道兼どんのような「拗らせ」はなく。ひたすら、「朗らかで健やかで、雄々しさに溢れる」んですよね。

ふと思うのは、これらの隆家どんの美質って、父亡きあとだからこそ全力で輝き始めたのかもしれないということ。平安中期の貴族の「粋」とか、「雅さ」とかを全力で体現していた中関白家のなかで、隆家さまのキャラクターはちょっと浮きます。

たとえば。道隆さまがまだお元気でいらっしゃったころ、雪遊びをした場面で、隆家どんはひとり冷めた目でそれらを眺めていました。

その姿勢は、今回のお話にも反映されていて。

一条天皇や伊周どんが往時の華やぎを見出そうとしている「職御曹司」を「うつろな場」であると一刀両断してしまいます。

この言葉は、隆家どんご自身のそもそもの感性からの言葉だと思います。

ですが、同時に、第24話でも書いたように、ものっそい現実主義者である隆家さまからすれば「それは違うだろ」としか言えない、でも、それは兄たちには絶対に伝わることのない嘆きだったのかもしれません。

■彼はまだ夢を見る

無事に大宰府からお戻りの伊周さま。天皇から許しが出た瞬間に、職御曹司に入り浸る学ばない長男っぷりを全力で発揮していました。

「中宮さまの隆盛を取り戻す」

この言葉の持つ絶望感を感じる感性は、伊周さまには未だ装備されていません。(一方、隆家どんがこれを聞いたら、超朗らかに嘲笑して一刀両断しそうですが((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)

どうにかして「中宮さまの隆盛を取り戻す」ことで、中関白家の勢いを取り戻す。そうして、自分がまた権力の中枢に返り咲く。伊周さまのアタマにはこんな考えが浮かんでいたことでしょう。

一条天皇が中宮定子さまのもとに入り浸っている現状を使えば、それは可能だと思ってしまうところが、おそらく伊周さまの限界であり。

この天皇の所業が公卿たちの不興を全力で買い散らかしていること、それにより、すべての凶事の原因が中宮さまに求められていること、そもそも伊周さまの評判や政治的手腕への評価が「下の下、ですね♡」って思われていること。

どこを切り取ってみても、「中宮さまの隆盛を取り戻すこと」と、「中関白家が再び盛り上がること」が繋がって行かないのです。でも、そのことが伊周さまにはまったく見えていない

伊周さまって、大宰府でもウツウツと「なぜ、この私がひとりでこんな大宰府なんぞに居なければならないのだ…」と、自省? ナニソレ、おいしいの? みたいなオーラを四方八方に放ちまくっていたのではないかと思われます。

だからこそ、賀茂川の堤決壊の責をとり、左大臣をやめると告げに来た左大臣道長どんの姿を見て、「チャンス、きたぁぁぁぁああぁあ!」ってめっちゃwktkな表情を一瞬したのであろうと。

でも、あの左大臣の言葉には超裏の意味があったにもかかわらず、それが聞こえていないあたり、伊周さまって平安中期の政を担うには器が足りていないんですよね。

伊周さまは、中関白家―道隆さまのいいところと悪いところを全部ダイレクトに持っていらっしゃいます。そうして、それは、時勢が変化し既に通用しないものになっているにもかかわらず、変わることがない。

だからこそ、このあと彼が政権の中枢に浮かび上がることはない

時代が「今」でなければ。道隆さまがご存命であれば。そんな if の世界に取り残されている伊周さまが少しかなしく見える第25話でした。

■そして彼女は途方に暮れる

こうして書いてみて思うのですが、定子さまって平安中期における現実の刃を誰よりも突き付けられた方ですよね。

兄二人は(最上の屈辱ではあるけれど)地方へ左遷されていった「だけで済んだ」。でも、ひとりで都に取り残された定子さまはずっと渦中にいて、その渦に翻弄され続けている。そして、それは今も変わらない。

「もうかつてのようなことは望みません」

これは彼女の心からの本音であったことでしょう。小さな幸せがあればよかった。傍に夫がいて、子がいて。夫婦で子の成長を見守って。何かに誰かに人生を翻弄されたり、握り潰されたりすることなく、ただ穏やかに温かな「家」をつくりたい。

定子さまは、幼いころから「帝の后になる」ことを念頭に育てられました。厳しくしつけられ、魑魅魍魎のなかで生き抜く強さを求められたのです。

でも、ほんとうは父と母のような夫婦に、道隆さまが貴子さまを慈しんだように、貴子さまが心から道隆さまを支えたように、そんなふうに人生を送りたい。もしかすると、定子さまの願いはこれだけだったのかもしれません。

でも、夫である一条天皇には伝わらない。
兄である伊周さまにはもっと伝わらない。

一条天皇とふたりでいた、あの白くて清くて儚い場面は定子さまの人生のつたなさを表しているようにも見えて……とてもうつくしく、そして、かなしかったです。

■うるわし男子列伝

■公任さまは相変わらず超公任さまで(/ω\)イヤン

あの、龍笛の場面だけでご飯3杯は食べられる気がします。

えぇ、実は第25話はリアタイせず、録画で見ていたのですね。そうして、見ながら、いつも通りメモを書いていたのですが。あの場面に来たとき、ワタクシのメモは錯乱したざますよ(誰)

錯乱。

龍笛の音色よりも、それを奏でる「手」に目が釘付けで。

何を隠そう(特に隠していませんが)、ワタクシ、この上なく手フェチで。男性については、顔よりも先に「手」を見てしまうのでございますですよ。そんなワタクシから見ても、公任さまの手の甲のほねほねっぷりとか、指の関節とか。

なに、あの、完璧な造形。

しかも、でっかい。ぐいっと広げた形で龍笛を持つ手がでかくて、やばい(語彙力)。顔の造作の美しさだけでなく、手まで完璧とは……公任さま、こわい子……(昇天)

・ ・ ・

あともう一つ。

一条天皇と中宮定子さま(というイチャコララブラブバカップル)の前で、龍笛を冷静に披露した公任さま。その場には、ちゃっかり伊周さまもいます。

そうして、「少し春ある心地こそすれ」の逸話が披露された後、公任さまを中心に歌会を開こう! との提案が伊周さまからなされます。

その瞬間の公任さまのご表情が全力で「おまえらの泥船に巻き込まないでくれ!」とおっしゃっていて。その一瞬の後、一条天皇までが賛成なさったこともあり、「スン」っとされていましたが。

公任さまって、こういう「一瞬の表情に込めるひだひだとした感情の豊かさ」が抜群にすてきなのですよねぇ…(/ω\)イヤン

今の公任さまは、バランサーでもあり、情報を広く集めようとする方。だからこそ、公卿の誰もが忌み嫌う「現在の職御曹司」での演奏も頼まれればやぶさかでなく行います。

でもそれは、自分の人生の穏やかさを全力で守るための行為であり、決して権力闘争(しかも、泥船)に加担するものではない。第25話では、そんな公任さまの「現在」が垣間見えて、とてもうれしかったのでした。

■夢見る頃を過ぎても

そして、一条天皇です。

いけめ…賢帝が最愛の女性に溺れていくさまがなかなかに麗しく。きっと一条天皇ご自身も「このままではいけない」と分かってはいるのだと思うのです。でも、定子さまを前にすれば理性なんぞどこかに吹っ飛んでしまいます。

あの時代の「天皇」という存在は、現在とは異なります。ほんとうに「雲の上の人」であり、人々にとっては「神」にも等しい存在でした。

だからこそ、天皇が正しいとは言えない行為をしていたとしても、天皇ご自身をダイレクトに責める言葉は出て来ません。そうして、サンタマリア晴明の見立て通り、凶事が次から次へ起きたとき。皆は口々に

「中宮が帰ってきてから凶事ばかり」

と中宮を責め立て、これらの凶事が中宮の存在の所為だと言わんばかりの空気を醸成していくのです。

「だれにも何も言わせぬ」

いくら帝がそう決心しようとも、公卿たちの不平不満の根本的な原因は帝ですから、その気概は空回りするしかありません。そうして、中宮の不安は現実のものとなります。

また、一条天皇自身も空気を読むことにかなり長けた方ですから(だからこそ、職御曹司に逃げているのかもしれませんが)、左大臣の

「私の煮え切らない態度のせいで」

という言葉の裏にある意味を正確に理解し、自己嫌悪のループに入って行くのです。あのときの左大臣道長どんの言葉の裏にあったもの、それはおそらく

いつまでも夢の中にいるんじゃねぇよ。
さっさと出てきて現実に対処しろよ。

ってことじゃないかと。

あなたの悲しみも、あなたのいる地獄も全部理解している。また、それを何とかして差し上げたいとも思っている。でも、だからといって、あなたがいつまでも夢の中で暮らしていては、現実は回らず、実際に人の命が失われていく。だから、とりあえず、そこから出てこい。話はそれからだ。

このとき、一条天皇の心にはきっと「朕が天皇などでなければ、定子と脩子と三人でひっそり暮らせたのに」と反実仮想な夢がちらりとよぎったことでしょう。

そうして、第26話ではとうとう彰子さまが入内なさいます。敦康親王誕生の夜に。

■まとめにかえて

そんなこんなで第25話でした。

第26話ではとうとう彰子さまの入内。まだ数えで12歳の彰子さまは、裳着を終えてすぐに入内の運びとなります。

あなたにはあなたの地獄があるように、私には私の地獄がある。

そんな世界がぐつぐつ煮え続け、超濃いナニカに醸されていく大河ドラマ『光る君へ』、次のお話もご一緒に楽しめたらうれしいです。


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