■大河ドラマ『光る君へ』第21話「旅立ち」感想―あなたの一日が終わるときに、そばにいるね
えりたです。
突然ですが、6月2日は「本能寺の変」が起きた日です。今でこそ、何やら年中行事のように燃えさかっていますが(え)、天正10年のこの日に織田信長公は天下統一の志は半ばのまま、現世との縁を断ち切られます。
そして、第21話で燃えさかる二条第と、火の海のなか一人静かに逝こうとなさる定子さまを見たとき、私が思い浮かべたのはこの「本能寺の変」でした。
無念さも悲しみも覆い尽くすような、生への諦念。あるいは、やっと終わることができるのだという、ほんのりとした安堵。
そんな諸々を定子さまの表情から感じ、同時に、信長さまを思い出して、泣きそうになっていたのでした。
・ ・ ・
というわけで、初っ端から580年ほどの隔たりもものともせず、1000年前の悲しみや苦悩に心を鷲掴みされていたワタクシ、相変わらず今回の記事にも主人公は出て来ません。
……というか、むしろ主人公のふたりが感想に出てきた方が驚かれそうな予感も沸き立つなか、前回のお話はコチラです。
ではでは、第21話「旅立ち」の感想に行ってみましょう。
■今日の中関白家
第1話から続けてきたこの「今日の中関白家」。ここからどこまで引っ張れるのかは分かりませんが。行けるところまでは存分に駆け抜け、書き尽くす所存。どうぞ、今回もお付き合いくださいませ。
■祖父から父へ、父から息子へ続く「呪い」
先週から引き続いて、どこまでも往生際悪く、ぐだぐだと駄々をこねまくる伊周さま。周りがどれほどドン引きしようと、全力で幼子のように駄々をこね散らかす姿は、いっそ清々しいとも言えます(え)
このあたりの幕引きのへたくそ加減は『栄花物語』にもくわしく描かれています。
たしか、『栄花物語』では、二条第からひそかに抜け出した伊周さまが藤原氏歴代の墓所である木幡へ、父道隆さまのお墓詣りに行っていたと語られていたような。
さすが、うるわしの道隆さまのご子息、流す涙も「いうにいわれず大きくて水晶の玉ほどの御涙がとめどなくこぼれる様子」と超うつくしい描写がなされています。
また、このあと伊周さまは僧形の姿で二条第へ現れます(これも『小右記』に記述あり)。そして、息子のあまりの往生際の悪さに、母である貴子さまが「一緒に行くから」と説得するのです。
少々形は異なりますが、母である貴子さまが愛息伊周さまと共に大宰府へ行こうとすることや、それを一条天皇が許さないことも『栄花物語』には描かれています。
もちろん『栄花物語』は、『大鏡』と同じく「歴史物語」です。ですから、そこに語られる事柄そのまま全部を「事実」と素直に受け止めるわけにはいきません。
ですが、伊周さまや貴子さまがこのように語られる人物として、多くの人に認識されていた、くらいは言えるのではないでしょうか。
あるいは。
『栄花物語』も『大鏡』と同じく、道長どんの栄華を語ることを主眼としていますから、もしかすると、中関白家をズドンと奈落に落とす必要があった。だからこそ、この描き方になったとも言えるかもしれませんが。
ともあれ、隆家さまに続いて、無事に…とは言い難くも、伊周さまもどんぶらこと流されていったのでした。
・ ・ ・
ところで、この一連の場面において、強く印象に残ったセリフがあります。それは、伊周さまが涙ながらに語った
「私が我が家を守る」
というセリフです。亡き父道隆さまがそう自分に言ったのだと。だから、自分が全部守らないといけないんだと。伊周さまはそうおっしゃいました。
おそらく、この言葉は道隆さまが幼い伊周さまー小千代君にずっと言いきかせていた言葉なのでしょう。「お前がこの家を守っていくのだぞ」と。「嫡男であるお前の生きる意味はそこにのみあるのだ」と。
思い返してみれば。
この「おまえが我が家を守るのだ」という言葉は、そもそも兼家パパりんが道隆さまに伝えたものでした。そして、それは道隆さまにとって呪いとも呪縛ともなっていたのです。
もしかすると、この言葉は道隆さまに対して働いた呪縛の強さと同じだけ、あるいは、それ以上に強く大きな力で伊周さまの心を縛りつけていたのかもしれません。
でも、兼家パパりんも道隆さまも、次代の者にただ「守れ」というだけで、どうすれば守れるのか、そのためには何が必要なのかを伝えることを怠ってしまった。
逆に言えば、その呪いから自由だった道長どんは、官位や官職がどれほど上がろうとも、庶民の生活から目を離すことはなかった。
もちろん、結果論ではありますが。
自分の家を省みず、人々の暮らしを守ろうとした道長どんが史上最強で最高の栄華を獲得し、一方で、自分の家を守ることに固執した伊周さまは奈落に落ちていくしかなかった。
そう考えると、時代の流れとは、なんという皮肉をもたらすのだろうと、改めて驚かずにはいられないのでした。
■そして彼女はたった一人に
第20話のラストから、第21話にかけて衝撃の出家を果たした定子さま。ご自分で髪を下ろしてしまったことは、『栄花物語』にもあります。
また、これは第21話を見ていた思ったことなのですが、定子さまに絶対的に絶望的な孤独をもたらしたのは、母貴子さまの
「私にはこの子(伊周)しかいません」
という言葉だったのではないでしょうか。
一条天皇の後宮に上がり、寵愛をほしいままにしていたときには、皆こぞって、自分にすがってきた。自分が「中宮」という位に就いたことに、全員が安心しきって。自分をこの上なくちやほやし、少しでもたくさん甘い蜜を吸おうと近づいてきた。
駄菓子菓子。
墜落とも言える没落が現実となった今、助けを求めてすがろうと手をのばしてみると、全員がその手を振り切り、全力で逃亡してしまった。既に父はなく、頼みの兄や弟も流刑地へ去る。最愛の夫である帝は地位のため、動くことはできない。
そうして、さらに追い打ちをかけるように、たった一人頼みにできるはずの母までが「私にはもう伊周しかいないのだ」と、定子さまに背を向けてしまった。
分かっていたことだけれど、もう誰も守ってはくれないし、自分を必要とはしてくれない。そんな圧倒的な孤独を現実のものとして、定子さまに突きつけたのが貴子さまの「私にはこの子しかいません」という言葉だったように思うのです。
…そりゃ、燃えたくもなるというもの(涙)
そうして、第20話の感想で触れましたが、このタイミングで定子さまの懐妊の情報が開示されます。
でも、考えてみれば。無事に生まれたとしても、男の子であれば皇統争いの火種にしかならず。また、女の子であっても後ろ盾のないまま育つことになりますから、時代の波に翻弄されるだけ。うん…そりゃ燃えたくもなるよね…(2回目)
ちなみに。
このとき定子さまのお腹にいた御子は、12月に生まれます。脩子内親王という皇女です。彼女は、父である一条天皇によって宮中でたいせつに育てられ、この惨状から想像するよりはずっと穏やかに人生を過ごすことになります。
少しだけでも、気持ちの救われる未来があって、よかった。
■うるわし男子列伝
オープニングのクレジットに「藤原公任」さまのお名前がなかったかなしみを、私はどこにぶつければ……(号泣)
■二度と会えない、二度と会わないー一条天皇
兎にも角にも、一条天皇ですよ。もうほんとに…10代の子にみんなして何をさせてるですか…(このとき、一条天皇は数えで17歳です)
彼は「賢帝」であろうとし、また、それを実現するだけの思慮深さを持っていました。だから、どれほどたいせつな身内であろうとも、法に照らして非情にならざるを得なかった。もし、ここでわがままを通せるほどの暗愚さや鈍感さがあれば、彼はきっともっと呑気に生きられたことでしょう。
でも、一条天皇は、自分が父円融からの皇統を引き継ぐただ一人の帝であることを強く自覚していました。そして何より、自分の理想とするビジョンを明確に持っていました。
だからこそ、この悲劇から逃れることができなかったのです。ほんとうに、これを悲劇と言わずして、何を悲劇というのだろうと思わずにはいられません。
ですが、どれほど非情な判断を下そうとも、彼は彼女を誰よりも何よりも愛している。だから、心がずたずたに引き裂かれる。その様子は『栄花物語』にも描かれています。
上に引用した部分の続きです。
伊周さま、隆家どんたちはそれぞれ出発し、同時に、定子さまが尼になられたことを伝え聞いた一条天皇は彼女を思って、涙がこぼれていらっしゃるのをお隠しあそばす。自分たちのことを、昔の「長恨歌」の物語にもなぞらえ、かぎりなく悲しいお気持ちでいらっしゃるのだった。
ざっくり訳すとこんな感じです。
一条天皇は、定子さまを守りたかったし、傍に置いておきたかった。でも、それはどうしても叶えることのできない望みであり、彼は彼女を見殺しにするしかなかった。
「中宮はもう朕には会わぬ覚悟なのか…」
そうつぶやく帝。悔やんでも悔やみきれないし、満ちて溢れてどうにもできない気持ちたちが、あの場面にはぎゅぎゅっと込められていました。
ですが、予告編で定子さまを宮中に戻すと言い切る一条天皇。おそらく、定子さまの懐妊を知った帝が、周りを押し切る…という流れだと思うのですが。
きっとこれは、一条天皇がその短い生涯のなかで言った、唯一のわがままなのだろうなと…でも、それは明確にわがままだからこそ、誰ひとり幸せになることもなかったのだろうなと…少し先の時間を思って、今から泣きたくなるのでした。
■まとめにかえて―『枕草子』爆誕
ここまで触れるきっかけをつかめぬまま来ましたが(なぜ)、第21話の大きなトピックとして『枕草子』爆誕がありました。
書くことで救われるかなしみがあると、第14話で藤原寧子さま(財前直見さんが演じていた、道綱どんの母上)がおっしゃっていました。まさにそれを具現化したような、うつくしくやさしい時間が流れた場面でした。
文字だから見えてくる思い。
声にして掴む生きている実感。
そして、確かにあったはずの「春、あけぼの」。
中学のころ、訳もわからず丸暗記したあの文章に、あんなにもせつない思いが込められていたとは……意味は分からずとも、古文を学んでいてよかったとしみじみ思った瞬間でもありました。
あの場面を見た私たちは、これからずっと『枕草子』のうつくしさ、せつなさを忘れないでしょうし、それはおそらく私たちの生きる時間をほんのりと温めてくれるものだと思うのです。
・ ・ ・
さて、明日にはもう第22話。
明日もご一緒に楽しめたら、とてもうれしいです。
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