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相手を愛をもって信じきること

「私は誰も救うことはできない。」
「人はみんな、自分で立つことができる。自分で乗り越える力を持っている。私にできることは、その力があると信じきること。」

ここ数日、自分自身に念じるように、何度もこの言葉を自分に投げかけた。

甥っ子が不登校になった。

担任の先生と馬が合わず、行けなくなった。
頭が痛い、お腹が痛い、となる。

フリースクールで働いた経験がある私にとっては、不登校は、ただの学校に行かない選択であって、それに良し悪しもない、と思っている。

だから、甥っ子が不登校になった、と聞いたとき、「そうなんだ」と返答した。

そんな甥っ子が不登校になって半月、私は姉家族が住む名古屋へ行った。

理由はなんとなく行く気になったから。

名古屋で姉家族と過ごす4日は、私にとっても自分への試練だった。

精神不安定な甥っ子と母である私の姉。

そんなふたりを見て、私は「なんとかしてあげたい!救いたい!助けたい!」と何度も感じた。

そりゃそうだ、家族が苦しんでいるのを淡々と見ることは出来ない。

でも、ここ数年自分の内側と向き合うようになって、他人は救うことはできない、ということに何度もぶつかり、腑に落ちている。

「私は誰も救うことはできない。」

「人はみんな、自分で立つことができる。自分で乗り越える力を持っている。私にできることは、その力があると信じきること。」

私が救うことができるのは、自分自身だけである。

そして後は、姉も甥っ子も、この状況を自分の力で乗り越えられると信じきること。

見捨てるわけでもなく、過保護になるのでもなく、程よい距離感で、いつでも手を伸ばせる位置で見守る。

そもそも私に助ける力はない。

本人たちが捉え方を変えない限り、その状況はなにも変わらないのだから。

私が助けると、姉も甥っ子もずーっと助けが必要な依存状態になってしまう。

そして私は、ずーっと助け続けなければいけなくなるのだ。

それが自己犠牲になり、負担が大きくなって、しんどくなるのは経験済み。

だから私は救うことはしない。それが姉と甥っ子への愛だとも思うから。

姉家族と過ごした4日間、助けたくて、手出し口出しする自分もいて、その都度、

「私は誰も救うことはできない。」

「人はみんな、自分で立つことができる。自分で乗り越える力を持っている。私にできることは、その力があると信じきること。」

を自分に言い聞かせた。

これから姉家族がどんなプロセスを辿ろうとも、愛で包み込んで信じて見守ろう。

愛を持って見守る、ということは、意外にも難しいものであるなあ、私への試練でもあるなあ、と今回感じたことである。

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