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村上春樹的近況

村上春樹は、ファンがハルキストと呼ばれているとちょっと違和感を感じ、村上主義者というのはどうだろう、と、『村上さんのところ』(新潮社)の中で提唱していた。
じゃあ37年来の村上主義者だよ、と思ってるわたしは、勿論、これまで村上春樹の新刊同様、『一人称単数』(文藝春秋)も、発売日に買った。買わなくたって、所収の短編8篇のうち7篇は、既に「文學界」に掲載されていた時に買って読んでいたので、再読だ。表題作「一人称単数」だけ、書き下ろし。
印象としては、この表題作だけがちょっと風合いが違う。村上春樹の短編は、時代によって、結構風合いが違ってきていて、「一人称単数」は、他者の激しい憎悪に直面させられる「私」という、中期以降の、わたしがちょっと苦手とする時代の短編に傾向が似ている。そして「品川猿の告白」は、『東京奇譚集』(新潮社)所収の「品川猿」のアナザーストーリー。一方、他の6篇は、わたしには原点回帰、というように思える。そういう読まれ方をすることを作者が是とするかはわからないが(でもきっと、一旦発表して自分の手を離れた作品を、読者がどう読んでも村上春樹は気にしないような気もする)、読んでいて、ふるさとに帰ってきたような懐かしさを感じた。例えば『中国行きのスロウ・ボート』(中央公論社)や、『カンガルー日和』(平凡社)を初めて読んだときのような、幸せな感覚。どの作品にもほろ苦い感情や、死のイメージが漂っていて、物語世界がただ幸福な訳ではない。それでも、過去と現在をつなげる出会いとか、様々なイメージの結びつきが構築する虚構が、わたしにはとても心地よい。
装丁は豊田徹也の漫画。今までの村上春樹本の装丁とがらっと違い(前回の『猫を棄てる』から、文藝春秋は結構従来の読者のイメージを覆す装丁へ攻めている気がする)、なんだか村上春樹の本を所有している、という感じがあんまりしないのだが、草むらの中に「With the Beatles」のアルバム(これはCDではなくLPだ)が刺さっている図柄が印象的。

そして、単行本刊行とのタイアップ、という意味合いもあってか、スポーツグラフィック「Number」の7月30日号に、高橋秀実による村上春樹インタビュー(純粋なインタビューではなく、インタビューに基づく高橋の記事)。「走ること、書くこと、大きなヤカンについて」、全8ページ。読む前に、知り合いがFacebookで話題にしているのを読んでいて、今年2月の京都マラソンをDNFしたこと、ランニング姿の写真が老いを感じさせること、を先に聞いていたが、そうして心の準備をして読めば、年をとっても彼の筋が一貫していることを強弁しているような記事だな、と思って読むことが出来た。というか、たぶんその筋は一生通し続けることを、付き合いの長い読者はわざわざインタビューで強調されなくても知っていたと思う。
30代で、専業作家になった頃、座り続けているのが身体によくないからというのと、小説を書く体力をつけるという目標のため走り始め、40代でスピードのピークが来て、「42歳がミッドウェーかな。その後はガダルカナル、ソロモンという感じで下り坂に入っていく」というのは、ちょっと早すぎでないだろうかと思わないでもない。他人との比較は意味がないと言っている人に言うことでもないけど、鍛え方によっては60代に入ってもまだ記録が伸びる人もいるので、毎日のようにきちんと走っている人が42歳でピーク、と言っているのはなんとなく不思議ではある。
短距離は速いけれど、全くマラソンに興味のない妻は小さなヤカン、すぐ沸騰するがすぐ冷める。自分=「大きなヤカンはなかなか沸騰しませんが、いったん沸騰したらいつまでも冷めません」「用途が違うんです」と語る。他者と一緒に行うスポーツに興味はなく、そもそもスポーツが好きな訳ではないが、走ることはどれだけでも出来る、そんな村上春樹の姿を、わたしはいつまでも追い続けていくのだろうと思っているが、自分が大きなヤカンか、というと、そんな感覚はあんまりないなぁ。マラソンというか、長い距離を走れば走るほど、「沸騰」という概念から遠くならないかしらん。
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