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Guitar0922(練習開始2ヶ月)

ギター練習を始めて2ヶ月が経った。
何だか定期的にリセットイベントが発生していて、現在も絶賛ほぼ0からのやり直し状態にあるんだけど、何でこうなるのかと考えたら、やっぱり独りで、しかも教則本も楽譜も無しで練習しているからということに尽きる。

初回のリセットイベント(左手の位置を確認するためにフレットをかなり横にして琴みたいに弾いていた→コードで音が出ずおかしいと気付いた)は、教則本で姿勢を確認すれば防げただろうけど、今回のもの(やっぱり親指だけだと速いものは弾けない)は特に初心者用の教則本では解決できないものだったろう。
8月はじめに姿勢確認のためごそっと借りた初心者用教則本をチラ見した感じだと、やっぱりギターはコード弾きありきという感じで、コードの押さえ方とか簡単なコードで弾ける曲の楽譜とかに紙面が割かれているものが多く、特にメロディー弾きの運指について詳しく説明してあるものはあまり無かった(1冊だけ複数指のことを書いてあったものがあった気もするんだけど返してしまった、、)。

メジャーな曲をギターをジャカジャカ鳴らしながら歌って満足するのが目的なら一般向けの教則本で事足りるだろう。しかし私の目的は最後に自分のためのエレジーとレクイエムを奏でることである。それらは決して巷のヒット曲ではありえないし、楽しいコード弾きというよりもそれこそ吟遊詩人がリュートでも奏でながら歌う憂いが近い。そういった意味ではクラシックギターのほうが向いていたのかもしれない。しかし私はアコースティックギターを買ってしまった。だからあるもので調整していくしかない。私は冷めた現実主義者である。

運指についてはTAB符なるものを使用して弾いていたら解決したのだろうか?前に本を借りた時にチラ見した感じだと、左手については指番号がついていた
気もするんだけど、右手はどうだったかな。。1冊だけあった右手の複数指運用についての記載があった本だと、この弦まではこの指、ここから上はこの指、みたいな感じで書いてあった気がする(もう少しきちんと見ておけばよかった、、)。感染状況がましになったらまた図書館へ行ってみようかとも思うけど、どうなることやら(私は身辺整理をしている段階なので、消え物以外のものはもう極力買わないようにしている)。

ギターを始め、都度状態を確認考察するようになったことは、自らの認知傾向を知る上での貢献にもなっている。アコースティックギターを買ったのに何故かベースみたいな使い方ばかりするようになったのも、自分の音の聴き取り方との関連が強いのではないかと最近思うようになった。

絶対音感については以前にも何度か書いたことがあったけれど、私の絶対音感はおそらく「単音&メロディー特化」のものなんだと思う。和音などもメジャーどころはすぐ知覚できるし、複雑なものも、聴き取ろうと思えば、回数を重ねれば可能なんだけど(専門コースの聴き取りの課題の時などには実際そうしていた)、その時は意識的に、「自分が普通に認識するメロディーとして優先的に聴こえてくる音」を外して、別の、「聞き取らなけばいけない裏で鳴っている音」に集中しなければいけなくて、わりと負荷が高い。
私が音楽の理論的なものに触れていたのは専門コースに通っていた10歳前後までだし(中学までは部活も音楽系ではあったけど、公立の集まりなので高度な理論等には程遠かった)、いくら選抜集団向けのものだったとして、その年齢の認知能力で、限られた時間の中で扱われるものだったのだから高が知れている。
ギター演奏の要ともなるコードについては、各キーのメジャー・マイナー・7くらいまでは呼び方と共に自動的に入ってくるけど、それ以外のものは、音階としては馴染みがあっても言い表し方を知らなかったり、ピアノで扱う西洋音階の和音としてよくある物以外は、それこそ一つ一つ音を分解して聴き取っていかなければならなかったりする。だから、今のベースライン弾きでしているように、その時歌いたくなったものをちょろっと聞いて確認してすぐに弾きながら歌うということはできなくなる。聴き取りに時間がかかりすぎるようになるだろうし、何よりコードを押さえることも(私には)難しい。

「自分が普通に認識するメロディーとして優先的に聴こえてくる音」が何なのかについてはまだうまく言語化できる段階にはないのだけれども、現段階においてはおそらく以下のようなものである可能性が強いと仮説を立てている。

・西洋音階のドレミファソラシドの各音のヘルツ数からあまり離れない範囲内「音階として認識できる音の連続」で
・西洋音階に乗っている、音楽的に意味のある旋律

前にも私は人の声とか雨音とか、そういうもので頭がいっぱいになることは無いと書いたことがあるけれども、それはおそらく上記の条件に当てはまらないから。
加えて、例えばラップとか、お能とか古典的な邦楽の謡も同様に、メロディーとしてうまく認識処理できないものだから、私はあまり得意ではない(ラップでも音階に乗せているものはメロディーとして認識しはする)。邦楽と言えば、三味線とかお囃子とかの節もうまく処理できないから、はっきりしてくれと思ってしまって気持ち悪くなる。そういえば、鼓などの音も音階・メロディーとして認識してはおらず、打撃音として知覚しているな。一方、ティンパニーなどのチューニングしているものは音階で聞いている(例えばSavage Garden"Carry on dancing"のサビに入っているティンパニーは「ドレ」)。

古い記憶にある曲として残っているものとしても、新しいものを聴く時にはじめに記憶に残るのもまずはメロディー、次にサウンドの印象、歌詞は最後という傾向が見えてきたのも興味深い。昔から歌詞は(特に曲が完全に頭に馴染んで「音」の部分に意識が削がれなくなる段階までは)読まなければなかなか入ってこないというのは認識していたんだけど、Coccoのように常に聴いたり歌ったりしてきた曲は別として、聴いていた時期が太古の昔でありかつそのまま聞かなくなり記憶の底に眠っていたものを引っ張り出してきたときにも、残っているのが圧倒的に「歌詞」<「音」だったという事実に少し唖然とした。自分としてはもう少し「ことば」に意識が向いていると思っていたんだけど、、これはやはり絶対音感の呪いというか拘束なのかもしれない。

とはいえ、絶対音感があるから今のように渡り鳥スタイルで「その日の歌」を歌うことができている。カラオケに行けていた時には、その時浮かんで歌う必要がある歌(浮かぶ歌は「音」ではなく「内容・歌詞」で脳が選択している感がある)を歌っていたんだけど、カラオケには私の歌いたい歌が入っていないことも多かった(何せメジャーどころではない好みでさらにシングルでもなくアルバム曲やカップリング曲を気に入りやすいというニッチさなので、仕方ないとは思っていたんだけど)。でも、今は下手で決して充分ではないけど自分で好きなものをいつでも選んで(確認すれば)ベース等をつけることができる。私は何故か歌だけで歌う気にもならないので、ギターを得たことで「排出」の機会は確実に増えたと言える。

ちなみに特定を避けるために具体的には言えないけれど、私には現在世界で活躍しているピアニストが周りにいた時期があって、その人は本当に才能に溢れピアノだけでなく知性もあり人格も素晴らしい、驚くほど非の打ちどころがない人だった。私は疑り深いので、はじめは特に人柄の部分については「演出」なんじゃないかと斜めから見ていたんだけど、そのうち、全然そうではなくて、本当に彼はそのまま、穏やかで優しく礼儀正しい、あれだけものすごいのに全く驕らず謙虚な人なんだと気付いた。そしてそれは、彼にはピアノがあったからだということにも後に気付いて、すごく腑に落ちた。持て余す感情は演奏に乗せて消化、昇華すればいい、彼はそれができるからあんなにも穏やかで、一方、音が含む情報量が多いんだ、と。
本物って本当にすごいんだよ。それまでにも周りにそれなりに上手い人はたくさんいたし、自分もそれなりには弾いたけど、全然別物だった。彼の音を初めて聴いた時、それまで噂では勿論聞いていたし、だからこそ関わらないようにしていたし、斜めからとらえていて、それはピアノの前で構える彼の姿をとらえ、演奏が始まる直前まで続いていたのに、本当にたった一音、はじめのたった一音でゾワゾワゾワと、腕に一斉に鳥肌が立った時の感覚が今でも残っている。これは別物だ、次元が違うと、たった一音でノックダウンされた。
私はそのままピアノを続けていたとしてもの傾向としても音大に行くことは無かっただろうし、ただのピアノが弾ける人とか、職業の選択肢としても無かったけどせいぜい町のピアノの先生レベルだったはず。私はあくまで現実主義者だから、凄まじい才能にも気づくけど、限界にも気づく。評価測定を妥当に行うことは極めて重要である。
彼のピアノは本当に良かった。日に日に知名度も高まり確実に活躍の場が広がっていっている彼の演奏を、もう生で聴けることはなくなってしまったけれど(3年以上コンサートに行けていない)、陰ながら、ずっと、応援している。

また話が逸れた。絶対音感やリセットイベントという制限はありながらも、最近私は自分のためのエレジーの一つを見つけた。それはSavage Garden"Gunning down rommance"。サウンド面から昔は回避してしまった2ndアルバム(Affirmation)に入っていたニッチ曲。この曲の歌詞にはまさに今で無ければ辿りつけなかった。サウンド的にはあまり好みではないしベース進行もかなりシンプルだから、複数指リセットで、簡単進行で弾ける物をザッピングして取り上げなければ、歌詞を読めなかったし、音の面であまり気に入らない→繰り返し聴かない&ベース進行だけ確認している段階では私の脳には音階認識が優先されるため歌詞は入ってこない(絶対音感の拘束)。
昔は気付かなかったんだけどやっぱり私はダレンとかなり似ているところがある。そしてだからかつても共鳴していたし、今もこうしてまた再会した。

私は自分の痛みを自ら口に出すことができない。だから他の人の歌を借りて「排出」していたんだ。それはCoccoやダレンが歌うように、そしてピアニストの彼が演奏をするように。
これまでの歌は一度弾いて歌ったらその後歌うことがほとんど無かった。でも"Gunning down rommance"は歌い続けるだろうという気がしている。ロマンスを撃ち殺し、折れてしまった翼での飛び去り方を学ぼうとしている語り手の絶望。ダレンが本当につらい時期に残してくれたギフトをタイムカプセルのように私は今受け取った。それにはきっと、そうでなければいけない理由があったのだろう。

今のダレンはどんな歌を歌っているんだろう?きっとそれは私の状態や求めるものとは違っているのかなという気もしている。聴きたい気も、聴きたくない気もする。どうするかは最後まで考え続けよう。

随分と長くなってしまった。やっと季節の進行を感じられるようになってきたということで、今回はフジファブリックの「若者のすべて」を選択した(志村さんのことも、うまく消化できていない部分が多いからまだ書いていないんだけど)。
人差し指と中指の2本で8ビートに挑戦してみた。時々打撃音のようなものが入っているのは勢いあまって板の部分を打ってしまっているから。まだまだ慣れないんだけど、親指と混ぜずに「上から下」で方向が揃っていて弦移動が少なければ何とかなるのかもしれないという感じもした。ピアノと似ているわけだし。
しかし不思議なのは、慣れない右手に意識が集中するのかと思いきや、何故か左手の移動が多い部分で特に歌が吸われる(今まで弾いてきていたものより全然簡単なのに)という謎現象が起きたこと。私の脳は意味不明である(いつものことだけど)。まあ、右手の負荷は常に均一にかかっているからと考えればそういうことなんだろうけど。

右手を刻むことが最優先になっていて歌に意識が回っていない。この曲はカバー等で情感たっぷりに歌われることも多いんだけど、私は基本的には「引き」の曲だととらえている。だって、「赤黄色の金木犀」でも「過ぎ去りしあなた」を思い返しながらも「期待外れな程感傷的にはなりきれず」「あの日の言葉が消えてゆく」ような感じの人だし、志村さんご自身、この曲はかなり淡々と歌っている。あとは、この曲の草稿と完成形は全然内容が変わっているんだけど、推敲の過程で、どんどん削ぎ落とされていっているんだよ。その差を見ていると、やっぱりあの淡々とした感じが合うよねって思う。

指に意識が吸われて変に情感が乗らないのはまあいいとして、やっぱり音程が不安定。音域が微妙なのもある。本当はもう少しちゃんと歌いたかったんだけど、今はまだ仕方ない(下手や残念をそのまま残す。それがこのアカウントの目的、検体だから)。
弾いてみて8ビートもそれなりになんとかなるかもという感覚を得られたのは収穫。でもちょっとギターが勇しすぎた(力が抜けない)。。ちなみにサビ前の部分は人差し指以降だとまだできないので親指のみで弾いている。


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