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目的をもたない、という贅沢。

昨日、長男と二人で出かけた話を書きました。

久々に二人で出た街中は、たくさんの人で賑わっていました。


父の日のプレゼントを買おうと思い、数年前まで何度か行った店を目指して、2人で歩いて行きました。
が、そこには店はなくなっていて…
残念ながら引き返すことに。

行きは、観光の通りを歩き、わぁー、わらびもち行列できてるね、なんて言いながら来たけど。
そのまま引き返すのはおもしろくないので、帰りは何本か違う細い通りを歩くことにしました。


ひっそりとしたその通りには、古くからの人形店が連なる。

あ、古本屋。
外に出された文庫本は色褪せ、でも、今どきのこだわりの古本屋にはない飾らぬ姿に、もしかして思いがけない出会いがあるんじゃないか、という期待がよぎる。

あ、新しくできたカレースタンド。
こんなところにあったんだ。

あ、この自家焙煎のコーヒー屋。
ずいぶん前に1回来たことある。

あ、本日分売り切れ。
看板見当たらないけど、何のお店だろう?


私だけキョロキョロし、そのたびに、
「あ。」
「わぁ。」
と声を出しながら、通りすぎていました。


こんなに身近な、こんなに小さな通りに、こんなに知らない世界がある。


今より自由だった頃。(とも言いきれないけど)
一人で、もしくは誰かとただ約束をして会ってから、どこに行こうか?歩きながら考えようか?とたっぷりある時間を半分もてあましながら、でも偶然の出会いを楽しみながら、過ごしていた気がする。


今は、目的を持って、限られた時間で、ということがほとんど。

本当はのんびり歩きたいけど、時間を考えると車で移動してしまう。
目的地まで、好きなだけ寄り道をすることもできない。


あぁ、こんなに身近にも、まだ見ぬ素敵な世界がたくさんあるはずなのに、私はすごくもったいないことをしているんじゃないか。

長男と並んで歩きながら、そんな焦りのような気持ちを久しぶりに抱いていました。



独身で関西に住んでいたころ。
何かに疲れて自分を見失いそうになったとき、大好きな金沢に行っていました。

休みの日の朝、サンダーバードに飛び乗って金沢駅に着き、ひたすらどこかでぼーっとしたり、通りを歩いたりして、夜にまたサンダーバードに乗って帰ってくる、というもの。


決めるのはひとつの目的地だけ、内容は決めない。
日常とは離れた空間で過ごす、贅沢な時間。



今はそんなことできない、って私、ほんとかな?
実は思い込みなんじゃない?
自由な時間は以前ほど長くはないけれど。
遠くには行けなかったとしても。

何に対してもそうだけど、できない理由ばかり考えるのはそろそろやめた方がいいよ。


ふと思い出しました。

色の使い方も好き。

そういえば、もう子どもたちが大きくなってからしばらく開いていませんでした。
大好きだった荒井良二さんの絵本。

荒井さんの"日常じゃあにぃ"という言葉が好きでした。

おはよう日常、こんにちは日常、こんばんは日常、お茶を飲む日常、テレビを見ても見なくても日常。歩く日常。バスに乗る日常。ロバに乗る日常。笑う日常、なく日常。どんな時も日常。特別な日常のつもりでもやっぱり日常は日常。そんなぼくは日常じゃあにぃを日常的に日常する。

ブログ「荒井良二 日常じゃあにぃ」より

この言葉の真意は、私の"日常から離れたい"という気持ちと反しているかもしれないけど。
彼の絵本は、小さな子どもたちの世話でいっぱいいっぱいだった私を、少しだけ違う世界に連れていってくれる、そんな存在でした。

久しぶりに開くと、変わらぬやさしい世界がそこにはありました。



そして昨日借りてきた『川端康成』。
「掌の小説より」の短編7話だけ読みました。
まだ感想を述べられるほどではないのですが。
ほんの短い話なのに、官能的というか、夢のような、生々しいような、不思議な後味を残していきました。
「山の音」も楽しみです。




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