自分だけがいいけど、誰かと一緒がいい。
その人らしさ、個別性
こんにちは、こんばんは、おはようございます。
朝晩、少し涼しくなってきましたが、皆さんいかがお過ごしですか?
日頃、対人援助の仕事をしていると、よく耳にする言葉があります。
「その人らしさ」「個別性」
いずれもとっても大事な考え方ですし、自分もしみついていると思います。
ですがね。
よくよく考えると、その人がどんな人かって、ある意味、ラベリングやペルソナにつながるって気もしますよね。
たぶん、「○○なとこ、いしだくんらしいよねー」って言われたら、ちょっとだけ陰性感情を抱きつつ、軽く否定するか、言えなかったら、今度から意識して変えようとするかもって思います。
まあ、天邪鬼なだけなんじゃないの?って思ったりもしますが、皆さんも大なり小なり心当たりありませんか?
ただし、言われる人にもよるかもしれないので、これまた厄介なわけです。
いつの間にかダブルスタンダードが誕生してて、忘れた頃に反動が来たりすると、もう訳がわかりません。
自分が思う自分と、誰かが思う自分 ~世間体感覚~
結局、人って面倒くさい生き物なんでしょうか。
誰かの目を気にしつつ、自分とはこういう存在でありたいと願い、主張し、誰かを窮屈に感じながらも、誰かに思いを理解してもらえると安心する。
そこで、ふっと思い出したこと。
ひと昔前に流行ったアドラー心理学の「共同体感覚」って覚えてますか?
この言葉だけを聴くと自分が所属している会社や団体に対する帰属意識って感じがしちゃうかもしれませんが、ちょっと違いまして、もっと広い概念として他者とつながっている感覚であり、他者へ関心を向けようってことのようです。
カール・ロジャースの共感的理解と無条件の肯定的配慮に近いですね。
やはり、対人援助職としては、とっても教科書的に大事なことです。
しかしながら、僕が気になっているのは、「誰かに自分のことを決められるのは嫌だし、自分は唯一でいたいけど、サブカルな人みたいに外れたくもないんだよね」って言う思いです。
ようは世間体も気になっちゃうけど、自己主張もしたいっていうちょっとダサい感じの思いですね。
どうしても、対人援助として考えると、道徳や倫理を考えて、善な人と向き合う感じになるんですが、より人間的って考えると、本質は、もっと情けなくてダサい感じな気がするんです(僕自身そうです)。
人の弱さや情けなさに目を向けられないと、本当の意味で共感的理解や無条件の肯定的配慮もできないでしょって思いますし。
なので僕は、仕事として表向き「共同体感覚」を謳いつつ、「世間体感覚」を睨んでいるんだなーって思いました。
だから、自由だなんだ、つながりがなんだ、自分だ、他人だと考えたとて、感覚的に手の届く範囲の人たち(遠方でも疎遠でもよく知ってると思ってる人とします)に対して、どう見られて、どう存在しながら生きていくのかってことなんだなーって思ったら、少し頭がほぐれましたとさ。
ほんじゃ、また。
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