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【絵本エッセイ】うちの絵本箱#10「愛に生きる:宗教を超える物語―佐野洋子作『一〇〇万回生きたねこ』―」【絵本くんたちとの一期一会:絵本を真剣に読む大人】


0.はじめに

 とうとう十号の大台に達しました。これもひとえに皆様の温かいご理解・ご支援のおかげです。これからも日々精進いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 さて、今回は、記念の第十号ということで、長年気にかかっていた佐野洋子作『一〇〇万回生きたねこ』を取り上げます。私がこの作品を読んだのが、おそらく小学生の時で、最初に読んだときは、くさびを打ち込まれたかのような衝撃が走ったのを覚えています。それ以来大ファンで、娘にもすぐに買い与えました。まだ難しいのですが、娘も喜んで耳を傾けています。テーマ的にとても深い作品で、私では力量不足だと思いますが、長年の憧れの書、いつか取り上げてみたいと思っていましたから、思い切ってなんとか取り組んでいきたいと考えています。

 それでは、今回はどのような切り口でいくかといいますと、一言でいえば、この本は、輪廻とそこからの解脱がテーマになっているように見え、それだと仏教とかかわってくると思われるのですが、どうもそれだけでは説明できない作品なのではないかというものです。確かに仏教的な要素もあるようですが、それではすべてを言い尽くすことができないのではないかと。かと言って、まるで宗教的な観点を無視しているわけでもなさそうです。果たして宗教と物語とどちらがより深遠なのか、という問題には、さまざまなご意見・お立場がおありでしょうし、最初にお断りしておくと、非宗教の私も最初は仏教的で、だから狭いと思っていたのですが(偏見がバリバリですみません)、丹念に読み込むうちにそうではないと思うようになりました。ただ、あまりにも大きな問題です。どこから始めていいやら迷いますが、とりあえず、丁寧にストーリーを追うことから始めてみましょう。


1.ストーリーの整理と仏教的要素

まずは、全体のストーリーをおさらいしてみましょう(註:ここでは、あえて絵のことには触れません。絵について考えだすと、とても複雑になるからです)。


ストーリーのおさらい

ねこは一〇〇万年生き、一〇〇万回生きて死んでいるのですが、冒頭の部分ではそのうち六回分の生が描かれています。ねこは、王様のねこ→船乗りのねこ→サーカスの手品使いのねこ→泥棒のねこ→一人ぼっちのおばあさんのねこ→小さな女の子のねこ、に輪廻転生を繰り返します。どの飼い主や環境も嫌いで、自分が死んで、飼い主が泣いても、自分は決して泣かなかったといいます。おそらく、誰かに属するということで、主体的な生ではなかったので、面白くなかったのでしょう。苦行のようなものだったのかもしれません。いずれにせよ、ここは、佐野洋子さんのシニカルな筆遣いがよく表れている、名調子です。

そのあと、ねこは野良猫になりました(結果的に最後の転生になります)。はじめて誰にも属さない自分自身になったのですが、野良猫になったことが「立派」として、肯定的に描かれています。これは、はじめてねこが主体的に自分自身の生を生き始めたことがすばらしいこととして捉えられていることを表していると思われます。

さて、その立派なとらねこには、大きな問題がありました。自分だけが大好きだったということです。どんな雌猫が寄ってきても、相手にしません。一〇〇万回も死んだということを自慢にして、狭い自己愛の檻に閉じこもっているのです。ところが、ねこに見向きもしない白く美しいねこが登場しました。これで状況が一変します。いくら自慢しても白いねこには通じないのです。ただ「そう」と一蹴されるだけです。ねこはついに恋に落ち、次第に軟化して、アプローチを重ねますが、なかなかうまくいきません。ですが、最後に素直に告白することで、ついに求愛を受け入れてもらいます。

二匹の間にはたくさんのかわいい子ねこがうまれました。ねこはもう自慢せず、白いねこと子ねこたちが大好きに、しかも自分よりも好きなくらいになっていました。やがて子ねこたちは大きくなり、独立し、白いねこも老いました。ねこはいつまでも白いねこと一緒にいたいと思っていましたが、ある日白いねこは死んでしまいました。ねこは初めて泣いて、一〇〇万回も大泣きに泣きました。そして、白いねこの亡骸の隣で静かに動かなくなりました。ねこはもう転生しませんでした。

以上がストーリーです。身もふたもない要約かもしれませんが、大体のところはつかめたのではないでしょうか。


仏教的要素

 それでは、このストーリーの中で、仏教的として捉えられる要素を考えてみます(あくまでも門外漢によるあてずっぽうです。どうかご了承ください)。

 一言でいえば、苦に満ちた繰り返しの生としての輪廻と、執着としての自己愛と、愛する者から別れる苦である愛別離苦のモティーフではないでしょうか。

 まず、輪廻からいってみましょう。

 輪廻とは、この世が一切皆苦であり、煩悩に満ちた生を送っていることを悟れない者が、何度も死んでは転生する辛い迷いの世界を指すとのことです。その業に従って、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六道のいずれかに生まれ変わることになります。この作品では、ねこが主人公ですから、畜生道の話になりますが、ねこは畜生というより、ほとんど人間のような知性と勇気を備えていますね。この輪廻転生のモティーフが、特に仏教だけの思想ではないようなのですが、とりあえず誰でもが思い浮かぶ仏教的な要素なのではないでしょうか。

次に、自己愛です。自己愛とは、平たく言えば、己を愛する心のことでしょうか。己をかけがえなく思い、大切にする心です。健全な自己愛ならばよいのかもしれませんが、必要以上に執着すると、きりのない物欲や名誉欲が芽生えたり、永遠の生命を願ったり、反対に虚無的な生を願ったりと、苦の原因になるような煩悩が芽生えてしまいます。なので、この自己愛をなくさなければなりません。この作品では、とらねこが白いねこを愛することで、危険な自己愛が減じ、健全な衆生の人生を全うすることが可能になる姿が描かれているように思われます。

 では、愛別離苦です。愛別離苦とは、生・老・病・死の四苦に、怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)とを合わせた四苦八苦という人生における八つの苦しみを表す言葉の一つとのことです。一言でいえば、愛する者と別れる苦だそうです。とらねこは、せっかく手にいれた白いねことの愛の生を、白いねこと死別することで失ってしまいます。自分自身以上に愛していた者との死別。これほど辛いことがあるでしょうか。

 この愛別離苦の苦を経験したことによって、とらねこにはいわゆる諸行無常の観念が生まれたのではないでしょうか。ですので、白いねこの亡骸の傍らで大泣きに泣いていた時のとらねこは、そうしたことを考えていたかもしれません。そして、その悟りにより、輪廻から解脱できたのではないかと考えられるのです。

 私は、これらの三つのモティーフが、この作品における大きな仏教的要素だと思うのです。


2.仏教との齟齬と愛の肯定

 さて、以上のような点で仏教的な色合いが出ていることを指摘してみましたが、今度は反対に、仏教的な要素から逸脱する部分についても考えてみましょう。ただし、あくまでも門外漢の気ままな思いつきなので、乱暴な議論かもしれません。気を楽に聞き流していただけると幸いです。


解脱の契機としての愛

仏教の教えとの齟齬について気づくこと。まず、愛が解脱のきっかけとなっていることです。この作品全体からは、地上での生や愛を慈しんでいる印象を受けます。「苦労はしょってでもしろ!」という言い回しを思い出します。「子をもって知る親の恩」なども、です。本来仏教では滅すべきとされる苦や煩悩こそが大切な人生を生きる上でなくてはならない知恵やエネルギーの源のように描かれていると思われます。だからこそ、とらねこは苦を覚えながら、満足して生き返らなかったのではないのでしょうか。

こうした意味で、おそらく愛を知ることを苦の源と考える、厭世的な仏教観とは何かが違うように思われます。そもそも苦も大事な生の要素ととらえている点が違うのではないでしょうか。


主体の存在

第二に、輪廻しているときには泣かなかった猫が、恋人が死んだときには泣いたという部分です。野良猫として、家族を持った存在として、自我を持ったことが肯定的に描かれている気がします。

 これは、輪廻の主体はないとする仏教の教えと違うのではないかと思われます。ある仏教の一派では、輪廻の主体は「阿頼耶識(あらやしき)」という、意識に浮かぶあぶくのようなものだと考えるそうですが、とりあえず西洋の近代的自我や主体とは違う概念だそうです。

いずれにせよ、この作品の描き方からしますと、まず、自我があることが大事なようです。また、その上で自分を愛するだけでは足りない、他者を愛せるようになって初めて一人前、という考え方があるような印象を受けます。自己愛をなくすのが重要という点では仏教の教えと齟齬はありませんが(本当かな?)、主体的に愛しているという意味で、仏教とは根本的に違うような気がするのです。


死後の世界

第三に、死後の世界についてです。仏教では、輪廻を脱して解脱したら、極楽に往生・成仏できると説かれていると思います。ですが、この作品の雰囲気だと、死んだ後には極楽でも天国でもない、静かな境地が待っているという印象を受けます。少なくとも、生き返らなかったとらねこが極楽往生したとも、仏になったとも書かれていないのです。まるで静かに消えていったとでもいうような境地のような気がします。


私は、これらの観点から、この作品は、仏教的というより、女性的な愛の教えとでもいうべきものが根本にあるような気がするのです。地上の苦しみに満ちた生を肯定的に受け止め、与えられた分際を従容として受け入れる生き方を賞賛しているように思うのです。

これは、さらに突き進めて言えば、いわば厭世的ともいえる(と門外漢の私は理解していのですが、違ったらすみません(汗))仏教観とは違う、現世を強く肯定する生き方を表しているといえるのではないでしょうか。その要諦が「愛」です。狭い己を持った、限界のある存在が、体と心と精神の限りを尽くして、ある同じ有限の存在を愛すること。そして、それに満足して死んでゆくこと。それが繰り返されて、命のバトンにつながってゆくこと。何よりもこうした「生」と「愛」のすばらしさが高らかに歌い上げられているのではないでしょうか。私は、ここに、この作品の根源的な深さ、迫力があるのではないかと思うのです。

ですから、結論だけ先に申し上げますと、この意味で、この作品は仏教ともキリスト教とも(おそらく?)重なるところがありつつ、違うのです。 

ひょっとしたら、ねこという動物だから、気楽な生き方ができるのかもしれません。これは夫が教えてくれた考え方なのですが、畜生道の輪廻などと持ち出しても、当てはまらないことからも、仏教的でないことが分かりますよね。

いずれにせよ、私は、ここで同じ作者の手になるエッセイのタイトル『神も仏もありませぬ』を思い出すのです。いわく、この作品は、キリスト教とも仏教とも違う、限界ある個人による、限界ある個人のための力強い「生」と「愛」の賛歌なのです。だからこそ、私たちは深く感動して、何度も何度も読み味わいたいと思うのではないでしょうか。ただ、仏教もキリスト教もすばらしく深い、高等生物としての人間だからこそあり得るありがたい教えです。この作品のよさは、まず、宗教をテーゼとして用い、それに対してアンチテーゼで、現世肯定的な考え方をし、なおかつジュンテーゼできているところにあると思うのです。

話が抽象的になりました。とにかく、こうしたこの作品には、文学者として、自由な芸術家として、恋に生きる女性として、母として、力の限り生きた人間佐野洋子さんによる「物語」の力が表れているといえると思います。一般的に言っても、物語とは、深くすばらしいもので、教えとはまた違った魅力のある世界です。最初に描かれた、とらねこの六回の前世のように、ストーリー全体からしたらただの前座的な部分でありながら、ディテールを大切に描かれているところも大切でしょう。この生き生きとした細部があるからこそ、物語が生まれてくるともいえます。これが理論や教義とは大きく違うところです。そしてさらに、今述べたように、端的に表れている文学らしい、宗教を踏まえつつ、それを乗り越えようとする、肯定的な世界観。私は、これが、この作品が多くの人の心をとらえてやまない根本的な理由だと考えます。

最後にまとめに入る前に、私の個人的な体験で恐縮ですが、私自身は、とらねこと白いねこの恋愛を私自身と夫との恋愛・結婚体験と重ねて読んでいたので(どちらがとらねこかは、ご想像にお任せします)、とても強い思い入れがあったことを告白しておきます。感情移入できるというのも、物語の大きな強みだと思います。いずれにせよ、この物語は、深く力強い愛に満ちた、人間的な物語として、多くの人の心をわしづかみにするのだと思われるのです。


3.結語:愛に生きる:宗教を超える物語

第二節でほぼまとめはできていると思うので、ここでは最後にその他に気づいた点をいくつか挙げておきましょう。

1)最初に言いましたが、王様→船乗り→サーカスの手品使い→泥棒→おばあさん→女の子と、飼い主が変わります。この飼い主たちの醸し出す雰囲気が、いたって西洋的なのです。輪廻という東洋的・仏教的なテーマを扱っているのに、舞台が西洋的であるとは面白いと思います。また、だんだん飼い主の社会的位置が低くなってくるところが、カースト的な序列を意識しているようで、興味深く思いましたが、これは偶然なのでしょうか。

2)第二に、とらねこが輪廻の前世をちゃんと覚えているのが不思議です。後に白いねこに自慢するくだりでも、サーカスのねこだったことに言及していますから、はっきり意識があるのでしょう。これも興味深い点です。

3)第三に、とらねこがいくら死んでも泣かなかったという点です。これは、畜生らしく冷めているということなのでしょうか。また、畜生なのに、いきなり解脱してしまう点が、仏教的ではない気がします。

4)第四に、白いねこについてですが、とらねこが素直にプロポーズすると、何も言わずに受け入れます。これはいたって受け身で、伝統的な日本女性のイメージなのでしょうか。

5)第五に、とらねこが子ねこよりも伴侶である白いねこのほうが好きだったと思われる点です。これは西洋的であり、今風なのではないでしょうか。

6)最後に、タイトルである一〇〇万回という数字についてです。これは、具体的に数えろというよりも、物語としての「何度も何度も」の誇張的な表現だと思われます。ときどき見かけますが、計算なんてするのは、学者的ナンセンスだと思われます。

以上、いくつかの疑問点を挙げましたが、皆様と共通の問いはあったでしょうか。いずれにせよ、今の私には、これらの疑問点を解決する手だてはありません。ただ、後々のために挙げるだけ挙げておこうかと思った次第です。どうかご了承ください。


それでは最後になりますが、私の取り組みの流れをありのままに申し上げます。私は最初、この話を仏教的なテーマを扱った本として結論付けるつもりでした。そういう作品だと目をつけていたからこそ、この深遠な本を取り上げる気にもなっていたのです。でなければ、おいそれとは手をつける気にはなれなかったでしょう。ともかくも、それで仏教や輪廻や佐野洋子さんに関する入門書などを読み漁ったのですが、仏教についても、この作品、また作者佐野洋子さんについても、謎が深まるばかりでした。仏教は広大無辺、この作品は深すぎて、私の手には余ったのです。いくら浅学のためとはいえ、浅はかな姿勢であったと思います。少なくとも、お経の一つもまともに読めたためしのない私が、仏教について云々する資格はなかったと反省しています。

 ただ、やはりこの物語がどうにも気になっていて、どうしても取り上げたかったのです。それには仏教の問題が避けて通れないと考え、数多の現代の読者の一典型として、あえて素人の立場からもの申してみようと、かなり乱暴な議論になってしまいましたが、精一杯取り組んでみました。そんな私の試みを快く思われない方もいらっしゃるかもしれませんが、あえて門外漢としての私の素朴な感覚から言わせていただくと、仏教では「愛」が苦の根源とされていることが、あまり納得できず、それに対するアンチテーゼとして読んだ時のこの作品のすばらしさが目立つと感じました。愛すること、一回限りの生を肯定的なものと受け止めることがすばらしいと、文学を好んで読んできた私には、思われて仕方がない時期が長かったからです。もし、この生が、すべて因果応報で、前世にすべてを遡り、また、後世のために善行を重ねることがすべての生の果報だとしたら、この世に今生きていることが、あまりにも寂しくなってしまわないでしょうか。ただ、私はその後、仏教のすばらしさにも開眼したいと思いました。この世はかりそめで、だからこそ、身を持して生きることによって、正しくありたいと望みます。しかし、やはりかりそめの生でも、私たちは今の境遇に生まれ、育ち、その中で懸命に生きていくことを義務付けられています。そして、その定められた期間中をすばらしく生きたいと望み、努力し続けることは、生き物としての自然であり、かつ、使命ではないでしょうか。私たちは、精神的であるとともに、自然の存在なのですから(ただ、そんなご立派なことを言わんとする私自身が、真面目に勤労しながら、日々努力する生き方がちっともできていませんので、大変申し訳ないことを書いてしまったと、また反省しました)。

話がまた抽象的になってきましたが、私は、この物語を読みながらいろいろ経験していくうちに、そんなこんなを考えるようになりました。よかれあしかれ、少しは考えが深まったのではないかと思っています。

さて、最後に、どうしても触れおきたかった、作者佐野洋子さんについて、少し書いておきます。

佐野洋子さんは、文学者として、アーティストとして、恋する女性として、母として、実に自由奔放に生きられた方でした(註;参考文献3参照)。小利口になることができず、自分に正直で、他人にも厳しく、矛盾を矛盾として抱えたまま生きる、激しい人だったようです。それには、大陸育ちで、最愛の兄と父を早くに亡くし、実の母とも近年まであまりうまくいっていなかった生い立ちと関係があるかもしれません。あるいは、二回も離婚し、一人息子の子育てにも苦労した、波乱の男女関係に満ちた人生経験も切り離せないかもしれません。すなわち、あまり模範的とは言えないかもしれませんが、波乱万丈な生き方をされた、激しくまっすぐで、光と影を持った、人間的な方でした。

ともかくも、そんな佐野洋子という人は、一人の魅力的な女性という以上に、人間的に大きな人だったようです。私は、この方の人間性の魅力に深く心をひきつけられずにはいられませんでした。それは、どの佐野洋子さんに関係ある人も、共通に発しているメッセージでした。私は非常に感銘を受けたのでした。

その佐野洋子さんの作品は、本当にオリジナルで魅惑的であるとともに、深く趣あるものばかりです。この『一〇〇万回生きたねこ』がすばらしいように、他の数多の絵本作品も佳作ぞろいですが、いくつかのエッセイにも、その魅力的な人間性が表れているようで、私はこれからは、エッセイにも関心を持っていこうと思っています。特に、先にも言及した、その中の一つである『神も仏もありませぬ』には、作者がこの『一〇〇万回生きたねこ』にこめた宗教観・世界観が、端的にタイトルに表れている気がしました。佐野さんは、自由で囚われのない方でした。そして、何よりも「愛」に生きた人でした。その意味で、佐野さんは、この作品にも特定の宗教観を込めておられたのではないと思うのです。宗教の枠組みを使いつつ、常に乗り越えようとしておられた。ただ否定するだけでもなく、飲み込むだけでもなく…。

確かに、この作品には、どのような宗教観が込められているのか、様々な議論が可能だと思われます。また、どんな読み方をするかは、個々人の自由だと思います。ですが、私としては、これだ、という一方に偏した見方はできませんでした。結論から言えば、先にも申しあげたとおり、私はこの作品は、仏教を基本的枠組みとしながらも、アンチテーゼとして(さらにジュンテーゼとして)うまく呑み込めている、物語文学の傑作だと思います。私はこの作品を「愛に生きる:宗教を超える物語」とでも名付けたいと思います。そして、そうした深遠なモティーフを見事に捌き切った巨大な人間性を有していた佐野洋子という一人の人間に惜しみない拍手を送りたいと思います。

やはり、この作品の射程はとてつもなく広く、また深いです。一筋縄の解釈ができません。ですので、私はこれからも、こうした深遠で、かつ、力強いこの作品と佐野洋子さんという巨人から刺激を受け続けたいと思います。そして、物語を読み眺めつつ、口幅ったいかもしれませんが、人がいかに生きるか、愛するか、それは是なのか非なのかという大きなテーマについて、これからも考えていきたいと思います。どんな解釈をしても受け入れるだけの包容力のある深い作品だと思いますし、亡くなられた佐野洋子さんもそれなら少しはお喜びになるんじゃないでしょうか。佐野さんがお亡くなりになられたのが、本当に残念ですが、ご冥福を心から祈りつつ、精進したいと思います。

本当に最後の一言ですが、私もちょっとは佐野さんみたいにたくましく生きてみたいと思いつつ、なかなかそうもいきません。ですが、少なくとも、自分なりに精一杯生きてみたいと思います。迷ってばかりですが、少しでもたくましくなれるように、心が折れ掛けたら、この本を読んで、勇気をもらえたらと思います。皆さんも、それぞれにこの本をお読みになれば、何かしら得るところがおありでしょう。読み方はきっと十人十色でしょうが、きっと深い感銘をお受けになると思います。本当に深い、余韻のある作品です。

ということで、今回はさすがに真面目に筆を擱こうと思います。とことん真面目な作品ですから。と言いつつ、またお茶を濁したくなるのですけれども…。やはりどんなに真面目な作品でも、絵本ですから、まずは楽しまなくっちゃ、とも思うのです(笑)。


参考文献

1)花山勝友『輪廻と解脱:苦界からの脱出』講談社、一九八九年

2)佐野洋子『神も仏もありませぬ』筑摩書房、二〇〇三年

3)『佐野洋子:追悼総特集一〇〇万回だってよみがえる』KAWADE夢ムック、河出書房新社、二〇一一年

4)江國香織ほか『一〇〇万分の一回のねこ』講談社、二〇一五年


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