「死」とは何か 「生」とは何か (1)逃れられない苦痛
「死」を思うとき、二つの側面が絡み合います。
「この生を失うこと」と「死に至る痛み苦しみ」と。
もしも死ぬことに痛みや苦しみが伴わないとしたら、絶望に自死する者、病を厭うて死ぬ者、あるいは戦いに挑んで死ぬ者などが、いまよりもずっと多いことでしょう。
だがそのようなことにはなりません。
なぜなら、もしも「苦痛なしに死ねる」遺伝子があったとしても、そのような遺伝子は自然淘汰されて、現在の「苦痛を伴って死ぬ」遺伝子だけが生き残るはずだからです。
従って、私たちの死は必然的に痛みや苦しみを伴います。
このように、私たちが痛み苦しまなければならない理由は単純ですが、その原因が自然淘汰すなわち「生に有利なものが生き残る」という私たちの「生」自体に根差したものなので、生きている私たちが苦痛から逃れることは原理的に困難です。
私たちが「死にたくない」「死が怖い」と思うのは、生を失うからでしょうか、それとも死が苦痛を伴うからでしょうか。
少なくとも、ほとんどの人は苦痛が嫌いですから、「苦痛だから」死にたくないとか死が怖いと思う人は非常に多いでしょう。
それでは、「生を失うから」という理由についてはどうでしょうか。
大昔から不老長寿は人々の夢でした。少しでも長く生きたいという、生への執着は人類の歴史とともに古くからあったようです。
さて、ここは少々、注意深く考えてみてください。
「不老長寿」とよく似た言葉に「不老不死」があります。
不老不死も昔から人々が夢見てきました。でも、「死なない」なんてどうせ絵空事だと分かっていますから、面白半分、ないものねだりで夢を語ってみただけのことでしょう。
それに対して、不老「長寿」の方は切実な願いだったに違いありません。痛み苦しむことなく健康な幸せがひと時でも長く続くことは万人の望みです。
そのとき人々は「まだ死にたくない」と願うでしょう。
でも、「まだ」です。どうせいずれは死ぬと分かっているから、安心して「まだ、まだ」とダダをこねているだけです。なぜダダをこねるかと言えば、死ぬときにはきっと辛く苦しい思いをするだろうと感じているからです。それを先延ばしにしたい、と思うのです。
「生を失う」ことには一抹の寂しさを感じますが、人は心の底から「生を失いたくない」と思っているわけではない、そんな気がします。
恐らく人は、十分に生きたなら、むしろ「生を終えたい」とさえ望むのではないでしょうか。
「オレにはやり残したことがある、だからまだ死ねない」こんな台詞をドラマなんかでよく聞きますが、裏返して言えば「やり終えてから死にたい」という意味ですね。
人間とは「始まって終わるという形式を持つ存在である」というのが私の持論です。
祝福されて生まれて(始まって)きたなら、同じように、満たされて死んで(終わって)いくことを望むのが人間という存在の在り方です。
ただし、人は死に至る苦痛に躊躇します。
「死ぬのは怖い、まだ死にたくない」と。
(「始まって終わるもの」については下記の記事をご参照ください。)
「哲が句」を語る 「はじまり」について① 始まって終わるもの|ego-saito (note.com)
「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito (note.com)
今回の記事の冒頭で私は述べました。「苦痛を逃れることは原理的に困難だ」と。
その苦痛は私たちの「生」自体に根差しているからだ、と。
これには、何とも言えず理不尽なものをお感じになりませんでしょうか。
「死ななければならない」ことが理不尽なのではありません。
私たちは「始まって終わる」存在です。それは理にかなっています。
なのに、その「理」が正しく行われるときに、私たちは痛く苦しく辛い思いをしなければならない運命にあります。
これは理不尽です。なぜなのでしょうか。
なんでこんな理不尽があるのか、この難問を解くにはまだ段階を踏まなければなりません。
そこで、私たちの生と死を巡る事情についてもう少し考えたいと思います。
生は輝かしく、祝福され、望ましく…
死は悲しく、むごたらしく、忌み嫌われ…
「生きていさえすれば…、死んでしまってはおしまい…」
生はよいもの、死は悪いもの、です。
いえ、そう思わされています。
あらゆる文明文化、芸術、法律、教育、習慣、何もかもがこぞって寄ってたかって、生はよきもの、死は悪しきものと言い立てます。
それはそうです。「生」は、何が何でも生かそうとします。そのようにして生に執着する遺伝子が自然淘汰で勝ち残るからです。
少しでも死から遠ざけ、生に駆り立て、生にしがみつこうとする遺伝子が生き残ります。
現在の人類は、自然淘汰の結果として生き残った遺伝子ばかりでできています。
ですから、自然淘汰の結果、あらゆる面で生は過度に美化され、死はもっぱら悪者扱いされることになります。
生は美化されるだけではすみません。
自然淘汰を生き残ろうとする遺伝子は、生がよいものだと思わせるだけでは、十分でないと考えます。もっと生にしがみつかせようとたくらみます。
冒頭で述べた死の苦痛に限らず、人生には至る所に苦痛があります。
誰もが苦痛を逃れようとして、苦痛がない方へ向かおうとします。
それは死から少しでも遠ざかろうとする方向です。生きるのに有利となる方向です。
なぜなら、そのような方向へ向かわせる遺伝子が生き残っているからです。
すなわち人生で与えられる幾多の苦痛・苦労・苦悩は、勝ち残り遺伝子が人を生に駆り立てる戦略であり企てであり巧妙な仕掛けです。
このようによーく見てみると、どうやら私たちの「生」は、思っているよりそれほどよきものではなさそうだし、常に「ムチ」で駆り立てられてないとちゃんと続けられないものなのではないか、と思えてきます。
「人生は楽しい」って、なかなか言えないわけですね。
生とは何か、死とは何か、この問いを誤りなく問うためには、そうした勝ち組遺伝子が仕掛けたたくらみをできる限り取り除く必要があります。
そのためにまず、死から苦痛のイメージを取り除く必要があります。
死の辛さ悲しさむごたらしさを直視しては「ならない」、それは死のまやかしに憑りつかれてしまうだけです。私たちに与えられているあらゆる死のイメージから目を背けなければなりません。
そして、生からはよきものというあらゆる通念を取り除く必要があります。同時に、生には苦痛・苦労・苦悩はつきものだという通念も邪魔になります。
そのようにしなければ、私たちの「生」そして「死」がどのようなものなのかを曇りなく問うことはできません。
さて、ここからは別の角度から話を進めます。
視点を変えて、「生と死はどちらが先か」ということを考えてみたいと思います。
私は常々申し上げておりますが、「〇〇とは何か」と問うとき、「〇〇」はどのように生まれたものなのか、その発生過程をまず考えます。
さて、生と死はどちらが先に生まれたものなのか。
もちろん、生きていなければ死ぬことはありません。生があって死がある、生なくして死はない、それは至極もっともです。
ならば、死よりも生が先となりますが、どうでしょうか。
私たちの「死」のイメージは過大に膨らんでいます。死はむごく悲しく辛いものです。そうしたイメージを取り除いてみれば、「死」は「生を失うこと」と言い換えられます。
「失う」というのも負のイメージを持つ情緒的な表現です。
もっとストレートに言えば「死」とは「生のないこと」、「死ぬ」のは「生がないようになる」ことと言い換えられます。
そこでもう一度、いま問うている問いを言い直してみましょう。
「生と死はどちらが先か」これを改め、
「生と、生のないことと、どちらが先か」
このように問い返してみると、答えは簡単にひっくり返ります。
「生」は、生のないところに生まれてきたのですから、生がないことがもともとあって、それが世界の本来の状態です。
こうしてみると、「死」とは、本来は生が終わることでしかないのに、生きている者が特別視して、半ば創作したものにすぎないのではないか、と思えます。
あるいは、勝ち組遺伝子が特別なものに仕立てあげた、という方が正しいかもしれません。
さて、最初の問いに戻ってみましょう。
「死とは何か、生とは何か」
「死」から話を始めましたが、この問いは、どうやらその核心は「生」について問うことにあったようです。
生のないところに生ができた。
その意味は何か。
生をやっていくのは大変だ。
苦痛を伴ういや~な死という「ムチ」を振るわないとやっていけない。
そこには無理があるのではないか?
生は一口で言って面倒なものだ。
そんな面倒なものがなぜ「わざわざ」できたか。
生は「わざわざ」できた、そこに生の「不思議」と、根本的な問いを解く「鍵」があります。
そろそろ話を区切りたいと思います。長い話をお読みいただきありがとうございました。
ここまでの話は、私と同様な視線を生や死に向ければ、誰でも書ける話です。
ですが、ここから先はこの私にしか書けないオリジナルな発想になります。
換言すれば、私の勝手な妄想に基づく話です。
私たちがなぜ死に至る苦痛を逃れられないのか、という「理不尽」に答える試みも次の記事で述べたいと思います。
(次の記事は、書くのに少々手間がかかるかもしれません)
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