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もしワールドカップ2006がなかったら、わたしはまだ韓国人の妻だった
サッカーにまったく興味がないわたしが、たった1度だけ、毎日試合をみていた時代がある。
それは2006年6月のこと。
FIFAワールドカップのドイツ大会の時だ。
ヨーロッパで行われる試合は、時差のせいで異様に早い。
まだひっそりと薄暗い早朝に、ひとりでむくっと起きて、部屋の電気より先にテレビをつけた。
テレビから流れる解説者の言葉に、本気で向き合う。
無意識でいては、音は洋楽のように耳の間をすり抜けてしまうから。
聞こえてくる音は母国語ではないのだ。
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2006年6月。
わたしはまだ韓国にいた。
離婚を切り出したのは1週間前。
先に離婚という言葉を口に出したのはわたしだ。
彼は「絶対に別れない」と言って、日本に帰るための飛行機のチケットを購入できないように金目のものを全部持ち去った。
いじわるだなぁというよりは、なんて器の小さい人なんだろうという気持ちのほうが強い。
「とりあえずいったん距離を置こう。ちゃんと考えよう」
そう言って、彼は実家に逃げた。
外国人の妻を虫が出る半地下の家に残していくあたり、もうそれは離婚をさらに近づけるだけであることに、なんで気がつけないんだろう。
とりあえず現状から逃げようとする彼を見て、ああ、そういえばそうだった、彼はいつも目の前の問題からすぐに逃げようとする。
やさしくて、弱い。
もう出会ってから5年。変わらない。
***
本当に離婚すべきかは、まだ確信が持てずにいた。
父と母に韓国人と結婚すると言った時、口では「おめでとう」と言ってくれたが、表情と言葉がなんとなく合ってなくてうろたえた。
目にうっすらと心配のもやもやがかかっていたことにびっくりし、そのもやもやに気がついていたけど無視をした。
無視をしたら無視をしたなりの覚悟と責任が必要だ。
なのに、まだ1年。
帰れるわけがない。
素直に言えば、ああ、どうしよう、だ。
おおげさに言えば、もう死んでしまいたい。
わたしはひとり残った半地下の暗い家で、「診療所 田舎」とか「住み込み 旅館」などのワードを本気で検索していた。
***
もともとサッカーなんてまともにみたことがないわたしは、原稿を書きながら何気なく、BGM代わりにサッカーを聞いていた。
狂暴なまでに真っ赤な画面が幾度となく映ることに気がつき、目をやると、そこには真っ赤な服を着たサポーターたちが映っていた。
サッカー韓国代表の公式サポーターは、「赤い悪魔(붉은악마)」と呼ばれている。
真っ赤なTシャツに、小さい赤い角をつけて、太鼓を鳴らして、熱狂的だ。
もともと最初にこの名を付けたのは海外メディア。
1983年のワールドカップで韓国はベスト4に進出し、この時の韓国選手の執念に感銘を受けたメディアが「レッドデビルズ」と呼んだのがはじまりらしい。
赤い悪魔は、試合の日になるとソウル中心部のソウル市庁前に集まる。
そして熱狂的な応援をする。
この時期のニュースはいつもソウル市庁前の赤い悪魔たちの暴走を報道していたけど、なんだか他人ごとだった。
***
2006年6月23日早朝。
わたしは別に好きじゃないサッカーの試合をひとりでみていた。
日本対ブラジル戦。1点先制したのは日本。
びっくりしてちょっと泣きそうになった。というか、正直に言うと、ちょっと泣いた。
前回優勝のブラジルに1点入れるなんてすごい。日本の選手すごい。勝つかもしれない。お願いだから勝って、と思った。
でも負けた。
悔しかった。
結果は1-4の逆転負け。2大会連続の決勝トーナメント進出とはいかず、世界は遠いことを知った。
わたしは、自分が日本人であることを知った。
少しして、中田英寿が引退するという報道を見た。
ああ、わたしも帰らなきゃ、と思った。
***
国際結婚をしたからと言って、別に国籍を変えないといけないわけじゃない。
でも、夫婦だったらやっぱり、天変地異が起こった時に同じ方向に逃げたい。
戦争が起こったら、守るものは同じ方向にあってほしいし、最後に帰る場所は同じでありたい。
彼との結婚を決めた時、これから先は韓国に骨をうずめる覚悟で、と思っていた。
でもやっぱり、わたしはどんなに無理をしても、韓国人にはなれない。
最後に帰る場所は、日本でありたい。
***
もし、2006年にサッカーワールドカップが行われていなかったら。
わたしはまだ2024年の今も、韓国人の妻として、韓国で生きていたかもしれない。
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