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わたしが韓国人と結婚して「バツ1/2」になるまでの12か月【#創作大賞2024】


わたしの離婚歴は、1.5回。

中途半端になってしまったのは、このうちの0.5回が国際結婚だからだ。

国際結婚というのはけっこう複雑で、2つの国で婚姻届を出さないと成立しない。

わたしは韓国で結婚し、日本では婚姻届けを出せぬまま、12か月後には離婚した。

「言葉の違いが、原因でしょ?」
「文化の違いが、大変だったんでしょ?」

離婚をしたばかりのころはよく言われたけれど、そんなの一切関係ない。

わたしと彼の間に、ほんのちょっとの愛と想像力が足りなかっただけだ。


カナダでは、わたしたちは外国人。

1年のほとんどが白い雪に覆われるトロントは、夏になると人があふれかえり、毎日のようにお祭りが開催される。

今日はチャイナタウンのお祭りで、明日はゲイパレード、そしてあさっては、ブラジル料理のフードフェス。

街を歩くと聞こえてくる異国の言葉は、よくても3割しかわからなかったけれど、このときのわたしは「相手の気持ちを察するスキル」が異常に発達していた。

そんな街の中心にある、小さな語学学校で受けたレベル分けテスト。いちばん下のクラスになった時はさすがにちょっとうろたえたけど、さほど大きな問題はない。

そして、同じクラスを見渡すと、もうひとり。

英語がぜんぜんできないのに、コミュニケーションにまったく困っていない韓国人がいた。

わたしと彼は、なぜか言葉が通じた。

どんなに英語が上手でも、母国語が違う人とのやり取りに苦戦するケースは多い。流ちょうな英語でペラペラはなしたあげく、なぜかケンカをしている人たちをたくさんみた。

「ねえねえ、これ。あの子が日本に一時帰国したときのおみやげ。みんなで食べてって」

「まじで?!ありがとう。みんな喜ぶよ」

もちろん、この会話は全部、英語。

文法がめちゃくちゃで、単語を重ねるだけのニセモノだったとしても、わたしたちはなぜか意志の疎通ができた。

「思考回路が似ているんだね」

周りからはそう言われたけれど、今思えばそんなことはあるわけがない。

メキシコ、イタリア、フランス、ロシア、中国、韓国、日本と、異文化がすぎるわたしたちのクラスでは、たまに不協和音が流れたけれど、わたしたちは、その不協和音にとても敏感で、争いごとは止めようとしていたし、止められた。

そして、わたしたちは自然と一緒にいることが多くなった。

12か月前:わたしたちは似ている


朝5時のCNタワー in トロント

カナダで1年間同棲し、お互いの国に戻って2年間遠距離恋愛をした後、わたしたちは韓国で一緒に暮らすことになった。

韓国に行くことを決めた理由はシンプルで、働き先が見つかったから。

コネ文化が根深く残る韓国では、人と人とのつながりでいろんなことが起こる。

仕事を紹介してくれたのは、彼の、先輩の、友達の、友達。そうなってくると、さすがにもうよくわからないけど、とにかく会いに言った。

オフィスは小さい食堂が1階にある7階建てのビルの7階。行くとドアの前で待っていたのかと思うぐらいに、すぐドアが開き、応接室に通された。

彼の、先輩の、友達の、友達はすぐにこう言った。

「日本の会社と韓国の会社のコラボで、新しいプロジェクトを立ち上げたい。その間に入って、調整役になってほしいんだ」

プロジェクトの中身が多少ふわっとしていることに違和感はあったけど、わたしは思いのほか、するっと韓国で働けることになった。

「事業が上手くいけば、就労ビザも出せるかもしれない」

わたしは、少しだけ期待した。そして、彼の言葉を思い出した。

「とりあえず大学の語学堂に通って、学生ビザが切れるまでに婚姻届を出して、途中で結婚ビザに切り替えよう」

彼の計画は、現実的ではあったし、わたしも異論はなかった。でも、ほんとうは不安だった。

結婚届は、ビザがほしくて出すものじゃない。

***

日常会話に困ることは一切なかった。大変だったけど、働きながら大学の夜間講座で勉強してきて本当によかった。

ビジネス会話ができるかどうかはやってみないとわからない。

でも、この2年で10回以上韓国を訪れ、彼以外の韓国人ともたくさんコミュニケーションをとってきた。大丈夫。自信はある。

どんどんクリアになる韓国語や韓国文化。今思えばちょっとだけ調子にのっていたかもしれない。

彼は相変わらず全く日本語ができなかったけど、そんなの、どうでもよかった。

***

韓国には、「ウォルセ(月貰)」と呼ばれる独自の賃貸システムがある。

最初に保証金を大家さんに預ければ、家賃は格安。

わたしは日本で働いて貯めたお金で、わたしたちの保証金と家賃を払った。あと1年ぐらいなら、生活費もどうにかなる。

彼は同い年ではあったけど、1カ月前にやっと大学を卒業したばかり。大手経済新聞社の記者として、就職が決まっていた。

韓国の男の人は、社会に出る前に約2年、軍隊に行く。この2年の時間のロスが、韓国の経済的発展の遅れの原因になっていると、彼はよく言っていた。

遠距離恋愛をしている間に、わたしはある程度のお金を作ることができたが、彼は今からやっと社会人。

お金がないわたしたちは、わたしが日本から持ってきた全財産の200万円を頼りに、とにかく安い新居を探す。

保証金の100万円を提供すれば、家賃は1万4000円/月。

日本ではあまり出会えない半地下の家の秘密基地っぽさに、わたしはワクワクしていた。

9か月前:言葉の違い


韓国の居酒屋で飲んだソジュ(韓国焼酎)

韓国での生活は、とても忙しかった。

朝は大学の語学堂で韓国語を学び、昼からは仕事場へ。13時から21時まで仕事をして帰宅。22時ごろから夕食の用意をして、深夜24時ごろまでに食べ終わり、そのあとひととおりの家事を終え、大学の宿題をして、寝る。

語学堂でわたしが振り分けられたのは、上級クラスだ。

初級と中級には、韓国ドラマや歌手が好きなミーハーな日本人がたくさんいたけれど、彼らはだいたい1年で帰ってしまう。2年目からはじまる上級クラスにはきてくれない。

日本語を話す機会は、ない。

代わりに同じクラスにいたのは、国籍が韓国で、母国語が英語の韓国系アメリカ人。

「うちの親、英語話せないから正確に気持ちが伝わらないんだよね…」

そういわれて、すごい世界があったもんだとおどろいた。

カンボジア人の女の子もいた。

彼女の手帳の中には、韓国アイドルの写真みたいに自国の王様の写真が入っていた。

「かっこいいでしょ、うちの王様」

自分の頭の中にある「かっこいい」の定義が、間違っているような気がしてしまう。

韓国の大学はカナダの語学学校よりもさらに国際色豊かで、とても楽しい。

***

わたしの韓国語は、仕事となるとぜんぜんダメだった。

分厚い資料を理解した上で書く企画書は常にこれでいいのか不安だったし、大勢の前でするプレゼンテーションは聞き返されないようにするのがやっとだった。

日本語を取り上げられたわたしは、常に仕事で5割くらいのパフォーマンスしか出せず、これが思いのほか大きなストレスになった。

さらに言えば、カナダにいた時は気がつかなかった、意外と大きな問題に遭遇した。

韓国本土には、日本のことが嫌いな韓国人がいる。

***

韓国人は、ひとりでごはんを食べることをよしとしない。

だから同じ空間にいると、一緒に食べようと誘われるのが普通。

ちょっと困るのは、近くの食堂に設置されたテレビから流れるニュースだ。このころの韓国は、毎日、竹島を巡る領土問題に関するニュースばかりを報道していた。

ある日、となりの部署の先輩2人から、一緒に食べようと誘われた。

とんかつがおいしい店があるらしい。

ひとりはよく仕事が一緒になる優しい先輩。そして、もうひとりは直接話したことはない、知らない先輩。

わたしたちはとんかつを頼み、テーブルに置いてある日本のウスターソースに目をやった。

知らない先輩が、日本からきたウスターソースを指さして言った。

「わたしコレ嫌い。初めて食べたとき死にそうになった」

わざわざ皿の上にソースをだし、指でべったりぬぐってなめて、顔をめちゃくちゃに歪ませる。

そして、食堂のテレビをぼーっと見ながら先輩は言う。

「竹島はうちらのもんなのになー」

ボソッと言われて、耳が熱くなった。

自分のことをたいして知らない人から向けられる、無条件な悪意ほど怖いものはない。

とんかつは、なかなかこない。

***

わざわざ日本人を個別攻撃してくる韓国人は、多くない。

でも、いつどこから飛んでくるかわからない攻撃をひとりで受けるのは、正直キツかった。

このままじゃダメだ。

日本人であることに誇りを持てる、日本人であることを強みにできる仕事を早く見つけないと、わたしがわたしでなくなってしまう。

***

土日は、留学していたころに出会った友人たちと飲みに行った。

1次会、2次会、3次会まで飲んで、その後インターネットカフェに行き、みんなで朝までゲームをするのが、週末のルーティン。

わたしはみんながゲームをしているとなりで、日本語を勉強している韓国人に向けたブログを書くようになった。

韓国人にもっと日本人のことを知ってほしい。

知ってもらえたら、メディアの日本の取り上げ方も変わってくるのではないか。

わたしは、ブログの更新に夢中になった。

寝る時間を削って、毎日10記事以上公開する。そんな日本人はめずらしかったようで、わたしのブログは注目され、賞をとり、あれよあれよという間に、書籍出版が決まった。

彼は「おまえ、やっぱり『天才』なんだな」と、喜んでくれた。

カナダに住んでいた時から、彼は日本語の「天才」という言葉だけは覚え、よく使っていた。

「俺たちは『天才』だから大丈夫。なんでもできる」

***

彼のおばあちゃんが亡くなった。突然だった。

入院しているのは聞いていたけれど、

「いつかおばあちゃんと会ってほしい」

と言われながら、結局、亡くなるまで会うことはなかった。

もう婚約者として家族へのごあいさつが済んでいたわたしは、おばあちゃんのお葬式を家族の一員として迎えることになる。

お葬式の朝。

親戚一同が乗る大きな青いバスがやってきた。貸切だ。

どんどん前を行く彼に遅れないようについていくと、知らないおばさんに腕をつかまれた。

「コレ持ってる?家族はつけるの」

白い布切れがついたピンだった。

これからどこにいくのか。
ピンはどこにつけるのか。
あの人はだれで、この人はだれなのか。

彼も、彼の家族も、みたことがない親戚のおじさん、おばさんも、だれも説明してくれない。たぶんそれどころじゃない。

大きな青いバスは、ソウルの大都会から、ぐんぐん高速道路を走り、いつの間にかどこかの田舎街へ。そのあと、ぐるぐる回る山道を走って、走って、走ったら、どこかわからない街が見渡せる、高い山の上についた。

バスを降りると、雨が降っていた。

1台の大きな、オレンジ色のショベルカーが濡れている。

韓国は、土葬だ。

ショベルカーがこれでもかと大きな穴を掘りはじめると、親戚一同はこれでもかと、大きな声を上げて泣きはじめた。

大きな泣き声に驚いたわたしをみて、彼が韓国では大きな声で泣くことに、弔いの意味があることを教えてくれた。

おばあちゃんは、土にかえり、泣き声はやんだ。

***

山の近くの小屋には、かんたんな食事が用意されていた。わたしは家族の一員として、親戚一同の配膳の準備をする。

わたしの持ち場は、テンジャンチゲだ。

「彼は男だから、キッチンに入ってはいけないの」

知らないおばさんがそう言って、わたしと彼を引き離し、テンジャンチゲのよそい方をおしえてくれた。慣れない年配の方の発音は聞き取りにくく、何を言っているのか、正確にわからない。

わたしのよそったテンジャンチゲを見た知らないおじさんが、少し怖い顔をして、大きな声でなにかを言った。

雨がうるさくて、なにを言っているのかわからなかった。

6か月前:文化の違い


近所の韓国屋台でよく食べたトッポギ

彼は家事ができない。

カナダで同棲している時も、わたしがほとんどの家事をしていたが、当時はヒマだったのでたいして気にしていなかった。

わたしは相変わらず、学校と仕事と出版活動で忙しい。毎日3~4時間しか寝られない。

「今日仕事で遅くなるから、とりあえず、たまごだけゆでといて」

とお願いしたら、すごかった。

キッチンは割れたたまごが散乱し、白い殻はキャッチボールでもしてたのか疑うくらい、遠くのリビングの壁ぎわまで飛んでいた。

それ以来、わたしは彼に家事を頼まなくなった。

***

新卒1年目の新聞記者の仕事は、記事を書くことじゃない。

先輩が気に入る居酒屋を探すこと。予約をすること。飲んだ後、タクシーを捕まえること。先輩をタクシーに乗せること。そしてさいごは、自分もタクシーに飛び乗ること。

一度、彼がタクシーに飛び乗り忘れたことがあった。彼の同僚から電話があって、迎えにいったら、道路で寝ていた。

韓国はタクシーが激安だ。

お金と言うのはすごいもので、人のモノと自分のモノに明確な線を引く。韓国のタクシーは安すぎて、韓国人はタクシーと自分の車の区別がついてない。もっと言えば、道路とベッドの区別もついてない。

彼は韓国人。

深夜3時になるとするするとタクシーで運ばれてくる。意識はほぼない。

***

留学時代の友だちの中に、韓国人同士のカップルがいた。

カナダにいる時から付き合っていて、彼らとわたしたちはよく一緒に飲みに行った。ふたりとも韓国人なのに、将来はオーストラリアで暮らすという。

「なんで韓国で暮らさないの?」

と、わたしは聞いた。

「韓国はいろいろ大変だもん。もっと自由になりたい」

ふたりは、あたりまえのようにそう言って、オーストラリアに旅立った。

***

新年が来る。

韓国では、年末に女の人だけ長男の家に泊まり込む。そして、お正月に食べる料理を作る。

本来ならわたしも泊まり込むべきなのかもしれないが、「行きたくない」とわがままを言って当日だけお手伝いをすることになった。

彼が、電話口でだれかに謝っていた。

韓国では、ポジションごとに明確な持ち場と役割を与えられる。

わたしは、あまり意識しないまま「次男の嫁」という持ち場と役割を与えられ、困惑していた。

男はこっち、女はこっち。

長男はこっち、次男はこっち。

長男の嫁はこっち、次男の嫁はこっち。

たぶんこのポジション分けは、ずっと続いてきたし、これからも永久に続くんだろう。

わたしがもし彼の子を産んだら、次男の長男はこっちで、次男の次男はこっち。次男の長男の長男はこっちで、次男の次男の次男はこっち。

永遠に続く。

わたしの気持ちなんて、関係ない。

***

仕事場にはお弁当を持っていくようになった。

食べ終わったお弁当箱を洗っていたら、うしろからひそひそと話し声が聞こえた。

「へー。日本人も同じように洗うんだね」

あの、日本が嫌いな先輩だった。

(そりゃ洗いますよ。その韓国語、ぜんぶ聞こえてますよ)

仕事で使う韓国語は、良くて8割しか聞き取れない。なのに、悪口やウワサ話は、ほぼ10割。完璧に聞こえてしまう。

***

仕事から帰る電車の中。

ふと窓をみると、泣いているわたしがいた。

その涙はなかなか止まらず、あごから1滴ずつぽたぽたと。そのリズムは降りる駅についても変わらない。

たぶん、はじめてじゃない。

もしかしたら、少し前からそうだったのかもしれないし、結構前からかもしれない。

今日は彼が早く帰ってくるので、みられるとまずい。近所の公園を歩いてから帰ることにした。

携帯電話がなった。

父からだ。

滅多に電話なんてしてこない、父からの電話。

日本からの電話。

「元気か?」

途中までは業務連絡だったのに、何もはなさなくても伝わってしまう。「どうした?」と聞かれて、焦った。

父はわたしの気持ちを察する能力が、異常に高い。リズムが変わった。

泣いた。とにかく泣いた。

父はめったに泣かないわたしが泣いているので、ちょっとびっくりしていた。そして、帰っておいでとだけ言った。

そろそろ学生ビザが切れてしまう。就労ビザは、出してもらえる気配がない。

わたしたちは、婚姻届けを提出した。

***

初夏。ちょっと早い夏休みをとって、わたしたちは中国へ。北京から上海とまっすぐ縦に、下へ下へと移動する。気持ちいい。

わたしたちは、外国人になった。

わたしたちは外国人同士になると上手くいく。

英語も、韓国語も、もちろん日本語も、なにもいらない。

3か月前:わたしたちは似ていない


カナダで見た、ナイアガラの滝と虹

壁がカビた。

旅行から帰ってきたら、壁一面が緑だった。びっくりした。

梅雨の時期、韓国の半地下住宅の壁がカビるのは、よくあることらしい。

彼は笑いながら、大丈夫、大丈夫と言って、となりのスーパーで除湿剤を買ってきた。小さい除湿剤を部屋の四隅に置いたけど、そんなのなんの意味もない。

壁は、すでに緑なのだ。

***

わたしが全ての家事をあたりまえにやるようになったころ、彼は家事のひとつひとつに、ばれない程度の小さい文句をそえるようになった。

「ワイシャツの首のところは黒くなるから手洗いしてっていったじゃん。愛してればできるでしょ?」

彼は、お願いごとの下の句に「愛してればできる」と、つけたがる。

その度にわたしの頭は「愛してる」を反芻し、その言葉の意味についていったん保留した。とりあえず「わかった」とだけ。そう言うのがいい。

そんなことより、明日までに、ここまで原稿を書かないと。

もう、ねむくて、頭がいたくて、早く布団に入りたかった。

原稿を書こうとしたら、彼はもう寝ていた。

***

ニュースは、危険。

突然、竹島の話をする。

わたしは原稿を書きながら、ニュースより安全な子ども向けの教育テレビに耳を傾けるようになっていた。

今日もまたかわいい子どもが出てきて、鼻歌を歌う。

一瞬。

すんとクリアな子どもの声。ああ、なんで。なんで聞こえちゃうんだろう。リズムに乗ってかき消されてくれたらいいのに。

3歳の女の子が歌う鼻歌の歌詞が、「竹島はわたしたちの島」だった。

チューリップの花が咲くように、ぞうさんのお鼻が長いように、韓国では竹島はわたしたちの島なのだ。

竹島は、普通の3歳の女の子の日常だった。溶け込みすぎた竹島は、もうわたしにはどうすることもできない。

あたりまえだけど。

どんなにわたしが、この原稿を書いても、日本人のことを伝えても、たぶんそれはなんの意味もない。

もうわたしには、なにもできない。

***

深夜3時。

彼が運ばれてきた。

わたしは、とうとう彼に言った。がまんしていたことを全部。よくないなと、思った。思ったけど、限界だった。

会社で日本人が嫌いと言って文句を言ってくる先輩がいること。竹島の話ばっかりされること。半地下の家は寒くて虫が多いこと。温度を測ったらトイレはマイナス10℃だったこと。壁はずっと緑なこと。彼は寝てばかりで家事は全部わたしがしていること。自分で稼いだお金を家に入れてくれないので日本から持ってきたお金がもうほとんどなくなっていること。お金の管理は任せろというから任しているけど何に使っているか全く報告してくれないこと。手がたまに震えること。頭痛が止まらないこと。毎日電車の中で涙が止まらなくなること。涙が止まるまで近くの公園を1時間以上歩いていること。ワイシャツの首のところの手洗いは自分でやってほしいこと。

そして、最近はぜんぜん彼の頭の中の声が聞こえないこと。

あなたが発する言葉の意味が、ぜんぜんわからないこと。

わたしたちは、似ていないこと。

わたしたちの脳はぜんぜん似てなかった。おそらくカナダで似ていると感じたのは、彼がわたしに合わせてくれていたからだ。彼がわたしのことが好きだったから、合わせていただけのはなし。そういう、よくある恋愛の、単純なはなし。そして、わたしは、あの時のわたしたちは、言葉ができない分、「相手の気持ちを察するスキル」が異常に高かった。

彼は、言った。機械みたいに。

「おまえは韓国の悪口ばっかりだ。ここは韓国なんだから、おまえが韓国に合わせろよ。ここは日本じゃない。おまえが正しいと思っていることは、ここでは間違いなんだよ」

悪口なんて、言ったことなかった。そんなつもりなかった。

韓国語が聞き取れなければごまかせた。でももう無理だ。ごめん。わたしはもう、韓国語がペラペラだ。

韓国語、めちゃくちゃ勉強した。あなたと生きていきたかったから。早く韓国で、韓国人と同じように働けるようにならないと。あなたはまだ学生で、わたしがお金を稼がないと暮らしていけないと思った。

言葉をしゃべれればしゃべれるほど、言葉が聞こえれば聞こえるほど、善意も悪意も表面しか見えなくなって、想像力が働かなくなっていくなんて、気持ちがこんなに食べられてしまうなんて、そんなの、わたし、知らなかった。日本で勉強しちゃったせいで、いろいろ順番がおかしくなった。勉強してこなきゃよかった。一歩ずつ文化に慣れながら、一歩ずつすすめばよかった。

彼は彼で、深夜までの残業と付き合いの飲み会で、それはそれは疲れているように見えた。

だから言葉をつつむ余裕なんかなく、出てきた本音は、本音だった。

「韓国にきて、最初から韓国語がしゃべれて、やっぱり『天才』だと思った。でも俺にとってはただの母国語で、たどたどしいしゃべり方が不安だった。できないことが多くて、子供にしか見えなくなった。尊敬してたのに、俺の方が教えることが多くなって、もう疲れた、ごめん」

温めなおしたテンジャンチゲが、冷たくなっていた。

***

わたしとあなたは、どこも似てない。

性別も国籍も、頭の中も、ぜんぜん似てない。

そして、わたしたちは別れることを決心した。

韓国に来て、約12か月が経過していた。

0か月前:離婚。そして…


カナダでみた夕日

結果、わたしたちは離婚した。

国際結婚というのはけっこう複雑で、2つの国で婚姻届を出さないと成立しないにも関わらず、韓国ではしっかり結婚が成立してしまっていた。

わたしは一度日本に帰国した。

彼はあろうことか、「絶対に離婚しない」としばらく言っていたけれど、言い出したら聞かないわたしの性格を知っているので、あきらめてくれた。

次に韓国の地に足を踏み入れた時、家庭裁判所の前で待ち合わせをした。裁判所の中に入って、離婚の意志をひとりひとり確認される。一瞬だった。

外に出ると、いつも灰色だった韓国の空は青く、今どこにいるのか混乱するほど日本の空と同じだった。

わたしたちはお互い「ありがとう」と言って、ハグをした。
彼の顔を確かめた。ちゃんと笑顔だ。

彼は「どっかで、めしたべてく?」と言ったけど、わたしは「ううん、いいや」と答えた。

わたしはその足で空港に向かった。

結局彼は、最後まで、日本語が話せなかった。

***

国際離婚の原因をよく聞かれるけれど、正直、説明がむずかしい。

国籍の違いがどーのとか、文化の違いがどーのとか、そういうことじゃない。わたしと彼の間に、ほんのちょっとの愛と想像力が足りなかっただけだ。

わたしの離婚歴は、1.5回。

実はもう1回離婚しているけれど、それはまた別のはなし。

おわりに


多様性がより重視されるようになったこの時代、ほんとうに大事なことは、言葉や文化への理解ではなく、ほんのちょっとの「愛」と「想像力」だと思います。わたしはこのころ、言葉や文化などの表面上の理解を焦ったばかりに、「愛」と「想像力」がわからなくなっていました。ほんとうは得意なはずの「相手の気持ちを察するスキル」が、全くなくなっていました。

自分とは違う環境で育ってきた、となりのだれかを大事にしたいと願うあなたへ。自戒の念を込めて。

2024年5月吉日
離婚歴1と1/2の女、枝豆より

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