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読書記録:おいしいごはんが食べられますように(講談社) 著 高瀬 隼子

【自分にとって本当に美味しい食べ物って何だろう?】


【あらすじ】

「二谷さん、私と一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」

ほんの些細な悪意が心をざわめかせる、仕事と食べ物、恋愛小説。

職場で容量良く振る舞っているつもりの二谷と、皆に愛される存在で料理上手な芦川と、仕事に一途で努力家の押尾。

人間関係の絶妙なままならなさを、「食べる事」を通して克明に描く、ほんの些細な悪意が心をざわめかせる、仕事と食べ物の恋愛小説。

あらすじ要約

中堅会社の地方支店で齷齪と働く、協調を大切にする二谷と皆に愛される芦川と、仕事に真面目な押尾のままならぬ人間関係を食を通じて描く物語。


働く中で、身体を壊していたら元も子も無い。
仕事に耐えうる身体を作る為にも、食事はきちんと摂る事は大切だ。
しかし、その固定概念ばかりに縛られると人生が不自由に感じられる。
義務で食べるので無く、嗜好品のように選べればと願う。
生きる為の食事を美味しいと感じなければならないのか?

二谷は食べ物に関して、カップ麺で腹が満たされたらいい程度で、ほとんど興味を抱かない。
彼と同じ職場に芦川は、体が虚弱で、仕事に対して責任感がないが、その態度と愛嬌で、男の先輩社員らの受けが良い
そんな芦川を苦手意識を持つ押尾。
二谷と押尾が結託して、芦川に悪意をぶつけようとする。

ところが、二谷と芦川は、いつの間にか男女関係を築いてしまっていた。
芦川は二谷の為に甲斐甲斐しく手料理を作って、職場に持ってくる。
職場の仲間に、仕事を早退するお詫びとして、手作りのケーキやクッキーを配る事で、職場での芦川の株はさらに高まっていく。

芦川を僻む押尾は、徐々に職場から弾かれていく。
自分の信念に従って、マジョリティ側に立っている筈なのに、排斥されていく。
仕事に対して必死に取り組んでいるのに、彼女があまりにも報われない。
そして、芦川の好意を見えない所で拒絶する二谷。
作って貰ったお菓子を見えない裏で、靴の底で踏み潰す。

こういう関係は、現実でもありえそうだし、仕事が出来ないのに、妙に周りから評価の高い人間も一定数存在する。
そういう人間は、真面目に仕事を取り組んでいる人間からすれば、イライラもさせられるし、何故周りはその人に対して注意をしないのか、不信感も生まれる。
給料が発生する時点で、手を抜いていい正当性はまったくなく、仕事が一人前に初めて出来るようになってから、人間関係の機微やコミュニケーション能力を磨いていくべきだと個人的には思う。

職場は憩いの場所でも遊び場でもない、当たり前だが、働く場所である。
だからこそ、職場に私情を持ち込んで、円滑な業務を遮ったり、ましてや恋愛関係に発展しるのは何処か違和感を覚えてしまう。
体調不良でお構いなしに仕事を早退する芦川。
しかし、皆が彼女の尻拭いをしている間に、芦川は趣味のお菓子作りに励み、それを免罪符として職場での居場所を確保しようとする。
愚かな男と優しいパートは芦川のお菓子を手放しに褒める。

まざまざと感じられるのは、恐らくは、芦川はお菓子作りや料理が別に好きではない。
明確に描写されていない調理の工程からも伺える、『お菓子を皆に振る舞って、褒められる私』が好きなのである。
手段と目的がいつの間にか、入れ替わっていて、周りも自分さえも欺瞞している。
弱者という立場を利用して、周りを自分を意のままに操ろうとする様は、見ていて気持ちの良い物ではない。
真の平等を社会が謳うのならば、誰かを特別に優遇するべきではない。
しかし、本当に障害があって仕事を満足に出来ない人も世の中にはいるので、それが甘えなのかハンディーキャップなのか見極める線引きが難しい。

職場に、未だに時代錯誤に蔓延するパワハラやセクハラ、食にまつわる同調圧力、不公平な業務分担。
仕事量や業務内容と賃金の関係は本当に適切なのか? 
体調不良はどこまでが許されて、どこまでが無理しても働くべきなのか、曖昧な境界線。

組織や職場を管理、運営する上で望ましい働き方とは一体何なのか、ありありと考えさせられる。
ただ一つ確かに言えるのは、誰か一人が仕事で楽をしようとすれば、違う誰かがその人の仕事を負担して、穴埋めしなければならないのである。

別に、給料にそれが反映される訳でもないし、完全に人の善意に依存している。
体調が悪い時は誰しもあるし、お互い様な部分も少なからずあるが、我慢して頷ける限度という物がある。

我慢を強いられる暗黙のルール。
人間が食事に対して美味しいと思える場合は、本当にその食事が美味しいからではなく、その時のその人の心理状態にもよる。
自分が美味いと思っている物でも、他の人が美味いと思えるとは限らない。
自分に対して、ルールがある人は周りの人達を疲れさせる。
体に良いと思う物を食べて欲しいという思い込みが、誰かにとって攻撃になり得る事も念頭に入れなければならない。
自分の意見は自分の中に留めて、他人の意見を尊重する柔軟さも必要だ。

身体に悪くても、それを食べる権利は誰にでもあるし、それを否定する力は誰にもない。
自分の好きだと思える物を自由に食べるべきである。
社会を生きやすくする為に、誰かに配慮する事が美徳とされるが、行き過ぎれば、逆に生きにくい世の中になる。
間違っている事は、周りに顰蹙を買っても、間違っているとはっきり言える押尾のような存在が、これからの職場に必要なのだと思う。

しかし、理不尽な現代社会に於いて、この意見も綺麗事なのかもしれない。
残念ながら、現実は頑張れば頑張る程に、報われず、損をするような仕組みになってしまっている。

いずれにしろ、仕事とは一人で出来る物ではなく、皆が協力し合って成り立つ物である。
職場で誰かが嫌な思いをしているから、それを上に立つ者が敏感に察知して、ちゃんとフォローしてあげるべきで。
せっかく働くのなら、気持ちよく働きたい。
誰かが我慢を強いられる職場はやがて破綻する。

人はそれぞれ、好きな物も嫌いな物も何もかもまるで違う。
他人の助言に耳を傾け、間違っているのならアドバイスをして歩み寄る。 

他人を変える事は出来ない。
少しずつ、自分が変わって行くしかない。
完璧な人間なんていないのだから。
そして、生き物である以上、生きていく中で食は密接に関わってくるが。
健康も不健康もその人の人生の責任である。

健康や不健康よりも、美味しいと思える物を食べるも事が幸せなのだ。














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