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ねぇachan。苦しみを軽やかさに変えるってこういうこと?

「まゆみさんは苦しみを軽やかさに変えれる人だと思う」


去年の秋のこと。その日はすごい暴風雨の日だった。東京・目黒の私が以前借りていたシェアオフィスでachanといろいろ話したりした帰り道、暴風に揺れる傘をさしながら「ねぇachan、ちょっと飲みに行かない?」と飲みに誘った。

               

はい。もちろん行きましょう。」一言返事でそう言ってくれて初めてachanと飲みに行った。ちょうどちょっと前に出来たこの簡易な餃子居酒屋さんに行きたいと思っていたのだ。「いらっしゃいませーーー」できたばかりのピカピカの簡易な餃子居酒屋。カウンターの簡易なイスに2人で腰を下ろした。「私はレモンサワー。achanは?」「えっと、黒霧お湯わりで」

               

「渋いねー笑。」そう言って笑った。30代前半の女の子が居酒屋で1杯目に黒霧お湯割、、なかなかの渋さと思う。achanは、何の脈絡かわかんないけど私のメルマガ(コラッセイ)に辿り着いて、ずっとコラッセイを読んでくれていて、会いたいと思ってくれて、わざわざ私に会いにきてくれた女のコ。すごくハキハキしてるんだけど、ちょっと内に秘めているものがある感じで、プチプラファッションを完全に自分のものにしている。とても優しいから自分のことをつい我慢しちゃう。そんで後から、我慢した分だけしんどくなっちゃう。人と関わりたいけど、関わりたくない。ま、いろいろあるねって感じ。そりゃそうか。アラサーとかアラフォーだもんね。

私がご機嫌でレモンサワー飲みながら、これまでの話(大変だった話)なんかをしていると、黒霧お湯割のグラスを両手で丁寧に持ちながら彼女がこう言った。

               

「まゆみさんは苦しさを軽やかさに変える人なんですね」

               

「だって普通はまゆみさんのようなそんな体験、人に笑って話せないですよー。少なくても私は結構難しいです。」

そうなのか。それってどういうことだろうって考えた。苦しみを軽やかさに変えるってどんな感じ?苦しいことって人それぞれで、ある人にとっては、苦しくならないようなことも、ある人にとっては苦しくなったりする図れるものじゃない。確かに私のこれまでの人生を振り返ると自分でもつくづく波乱万丈な人生を生きていると思う。長年付き合った元彼は相当なモラハラだったし、大阪で5年間一緒にお店をやっていた中学からの同級生とも絶縁状態になるし。東京に来てからは、これまたこれまでの自分の経営してきたこととか、いろいろ振り返ってすごくしんどくなってた。苦しいことってたくさんある。図れるものじゃない。あなたの苦しさと私の苦しさ、どっちが苦しいとかはない。

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まゆみさんは苦しさを軽やかさに変えれる人だと思う。

なんか今日急にあの時のachanのこの言葉を思い出した。ねぇachan。私思うんだけどね、きっと誰でも苦しさを軽やかさに変えれるんだと思う。というか、誰でも変える力を持っている。

でもそれを自分が「変える」と決めていない、決めれないだけなのかもしれない。


だとしたら、私は変えると決めていたい。

変えれるんだっていつも言える自分でいたい。そしたらさ、ねぇachan、また苦しいことがあっても軽やかに生きていけると思わない?


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