記事一覧
「いしものがたり」第35話
シュイが振り返ると、すぐ傍らに控えていたフレデリックが先に家の中に入り、食事の準備をする。そう、シュイを逃がした罪でマーリーン公に捕らえられていたフレデリックは、その後無事解放され、シュイの護衛官として残ったのだ。アルベルトやフレデリック以外にも、自らの意思で王都に残った兵士は大勢いる。サリムもときどきマリーと一緒にこの家を訪れて、手伝いをしてくれたり、子どもたちのよき遊び相手になってくれる。だ
もっとみる「いしものがたり」第34話
8
雪解け水が流れるように、木々は芽吹き、花の蕾は綻びはじめる。山に春がきていた。動物たちは新しい命を生み、森の中を駆け回る。そして人々の世界にもまた春が訪れていた。
人々の隙間をすり抜けるように、ヒースは雑踏を歩く。その肩にはアズールが止まっていた。ときおりヒースの正体に気づいた者から、気軽に声をかけられる。
ヒースがアウラ王都を統べるようになってから、早くも三年の月日が流れていた。幸い
「いしものがたり」第33話
ぐおぉぉ……っと、深い谷底からまるで何かの生き物が咆哮するように、風が吹き抜ける。痛いほどの風圧に顔をしかめながら、ヒースは手を伸ばし、前を落ちていくシュイの身体を庇うように腕に抱え込んだ。
あれほど遠かった崖の底が見る見るうちに近くなる。深い木々に囲まれて、水面の一部がきらりと光るのが見えた。
死にたくなんかない――!
ヒースは迫りくる衝撃から少しでもシュイを庇おうとする。ぎゅっと目をつ
「いしものがたり」第32話
やがて馬車が止まり、目的地に着いたことがわかった。
「着いたぞ」
ロープで縛られたまま馬車から降りると、ヒースは周囲を見渡した。
ここは……。
そこはアウラ王都の西の果てにある大地、通称”神々の棲む森”と呼ばれる神聖な土地だ。その名前は古来人々に信じられてきた、龍神伝説からついたと言われている。断崖絶壁にあるその場所は、アウラ王都でも神官や王族などが特別な儀式を行うとき以外、滅多に人が足を
「いしものがたり」第31話
7
ヒースが地下牢に戻ってから、警備はますます厳重になった。逃げられないよう、戻ったときに折られた足の指が紫色に腫れ上がり、熱を持っている。
そのとき、ざわざわと騒がしくなった。誰かがヒースのいる地下牢へと下りてくる。それも一人ではない、複数いるようだ。兵士たちは鍵を開けると、ヒースのいる牢へと入ってきた。
「立て」
若い兵士に乱暴な仕草で鎖を引かれる。
「う……っ」
けがした足に自分の
「いしものがたり」第30話
「そんなことはしたくない」
ヒースの言葉に、アルドの目に灯っていた光がふっと消えた。
「……そうだな。お前はそういうやつだ」
その言葉にヒースが違和感を覚えた刹那、それまでの穏やさが嘘のように、寒々とした空気に包まれた。突如、目の前に立つ男が見知らぬ人物に思えてくる。それまで知っていたはずの仕事仲間などではなく、何か得体の知れないものであるかのように。
お前は何者だ? いったい何が目的だ?
「いしものがたり」第29話
それから更に長いときが過ぎた。日の光が届かない地下牢にいると、一日が果てしなく長く、時間の感覚が曖昧になっていく。
フレデリックは自分の頼みを聞いてくれただろうか。たとえ専属護衛とはいえ、フレデリックはもともと王都側の人間だ。その彼が自らの身を危険に晒してまで、シュイを守ってくれるだろうか。
きりきりと心臓が痛んだ。こんなところで鎖に繋がれたまま、何もできない自分をヒースは呪った。
「くそ…
「いしものがたり」第28話
澄んだ水の匂いがした。頬にさらさらとしたものが落ちてくる。目を開けると、冬の空が見えた。
「ヒース」
シュイ……? これは夢か……?
瞼を開いたヒースの頬に、まるで銀の糸を紡いだようなシュイの長い髪がさらさらと零れ落ちた。滑らかな指がそっとヒースの額に触れ、傷口を確かめた。
「……っ!」
いきなり起き上がろうとしたヒースは痛みが走り、顔をしかめる。しかし、悲しそうなシュイの顔を見て、ヒー
「いしものがたり」第27
その話はオースティンに聞いて、すでに知っていた。だがなぜマーリーン公がいまその話をするのかわからない。
ヒースに驚いたようすがないことに、マーリーン公は少しだけ意外そうな表情を浮かべた。思いがけない話の成り行きに、緊張を滲ませる兵士を振り返ると、「少しだけこの者と二人きりにしてもらえますか」と告げる。
「しかし、それはあまりに危険です……!」
「大丈夫です。逃げるつもりならいくらでも機会はあっ
「いしものがたり」第26
ピシャ……ンと、水の音が聞こえた。どこかに汚水がたまっているのだろう、ひどい臭いがした。だかそれもしばらくすると鼻が麻痺し、汚水の臭いなのかそれとも自分から臭っているのかわからなくなった。
最後に痛めつけられたときにできた傷口が化膿し、熱を持っていた。激しい悪寒に全身を震わせながら、ヒースは必死に意識を保とうとする。
あれからどれくらい時間が経っただろう。もうずっと長い間こうしている気も、反
「いしものがたり」第25話
6
石造りの地下牢はすきま風が入り込み、ひどく寒かった。そこはどこか塔の地下にあるようだった。寮に戻るとき、王室専用の兵士たちに取り囲まれ、ここに連れてこられたのは覚えている。捕まったときに頭を殴られ、意識を失ったことも。乾いた血が髪に張りつき、引き攣ったような感触があった。両腕には鉄輪がはめられ、そこから頭上に伸びた鎖がヒースの自由を奪う。
ここは……?
注意深く周囲のようすを窺いながら
「いしものがたり」第24話
「違う違う、素直に信じられないのはわかるが、お前の考えているようなことじゃない」
ヒースの迷いを見透かしたように、オースティンは困ったように頭の後ろをかいた。
「俺にはさっき話したように大した力はない。ただなんて言ったらいいか、昔からほんのときたま不思議なものが見えることがある。お前のその袋、俺にはその袋の中身が、ときどき光を放っているように見えるんだ」
――光……?
ヒースははっと目を見開
「いしものがたり」第23話
***
思いがけないシュイとの邂逅から、話は数時間ほど遡る。
城の朝は早い。まだ夜が明け切らないうちから台所に火が灯され、料理が作られる。主人たちがまだベッドの中で心地のよい眠りについているうちに、城で働く者たちの一日はすでにはじまっている。
あの日、りんご売りの子どもの最期を看取ってからヒースが再び目を覚ましたとき、アルドの姿はどこにもなかった。
――あり……がと……。
死ぬ間際、
「いしものがたり」第22話
5
――シュイ、泣いたらだめだ。
シュイの脳裏に、ヒースの声が聞こえた。幼い自分たちの姿が見える。
あの湖――。深い森の奥にひっそりと佇む湖は、いまでもまだあの場所にあるのだろうか。
――シュイ。見て。シュイが流した涙の石だ。きれいだね。
記憶の中のヒースの言葉に、シュイの心はわずかなさざ波を立てる。
物心ついたころから、シュイは自分がどこか他の人とは異質であることを感じていた。その
「いしものがたり」第21話
――幕間――
「他国に潜ませております間諜によりますと、アリューシカ王国ではすでに我が国に進行する準備を整えており、ほかの二国はまだ状況を見ているようです」
「てっきりヴェルン王国が真っ先に我が国に進軍してくるかと思ったが、その動きはまだ見られないのだな?」
「ええ。いまのところそのようすは見られません」
最小限に明かりを落とした室内では、声を潜めた二人の男の話し声が聞こえる。一人はこの国を
「いしものがたり」第20話
そのとき、誰かの手が躊躇うようにヒースの肩に触れた。
「……無駄だよ。その子はもう助からない。第一、医者にかかる金なんてもの俺たち庶民にはない。貴族さまとは違うんだ」
自分が聞いたことが信じられないように、ヒースは声をかけてきた男を凝視する。いったい何を言っている?
そのとき、馬車から立派な身なりをした貴族の男が出てきた。男はヒースの腕の中でぐったりとしている子どもには目もくれず、おろおろし