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「いしものがたり」第25話

 石造りの地下牢はすきま風が入り込み、ひどく寒かった。そこはどこか塔の地下にあるようだった。寮に戻るとき、王室専用の兵士たちに取り囲まれ、ここに連れてこられたのは覚えている。捕まったときに頭を殴られ、意識を失ったことも。乾いた血が髪に張りつき、引き攣ったような感触があった。両腕には鉄輪がはめられ、そこから頭上に伸びた鎖がヒースの自由を奪う。
 ここは……?
 注意深く周囲のようすを窺いながら、ヒースは少しでも情報が探れないか試みる。試しに鎖を軽く引っ張ってみたが、がしゃがしゃと音が鳴るだけで外れそうになかった。
「おとなしくしてろ!」
 牢番に怒鳴られ、ヒースは言うことを聞いた振りをする。いまは慎重に脱出する機会を窺うしかない。何としてもここから逃げ出さなければ……。
 ランプの明かりと共に、誰かが石造りの螺旋階段を下りてくる。何気なく顔を向けたヒースは、そこに現れた顔を見て目を瞠った。
「おお臭い。この臭いはどうにかならないものか。臭くて鼻が曲がりそうだ」
 この国の王であるメトゥス王とマーリーン公、そして彼らを守る兵士たちがヒースのいる地下牢に下りてくる。
「その者か」
「そうでございます」
 メトゥス王はヒースを見ると、眉を顰めた。ヒースが武道大会で勝ち残り、一度接見したことなど覚えていないようすだった。
「まさかモンド村の生き残りがいたとはな」
「誠に。しかし今回におきましては、我々にとって幸運だったかもしれませんよ」
「うむ……」
 マーリーン公の言葉に、王は不満を滲ませながらも渋々うなずいた。
「それで石さまは」
「いま護衛の者が連れて参ります」
 シュイの名前に、ヒースははっとなった。
「やめろ! シュイは関係ない!」
 がしゃんと鎖が鳴った。彼らに近づこうとする動きは、自らを拘束する鎖によって阻まれる。だが、それを見咎めた兵士が容赦なくヒースの肩を打ち据えた。
「無礼者! 王の御前だぞ!」
「……っ」
 目が眩むほどの痛みに、ヒースは一瞬息ができなかった。手にした棒で何度も激しく打たれる。がっと鈍い嫌な音がした。続けて兵士が打とうとするのを、メトゥス王が止めた。
「もうよい。死んでしまったら元もこうもない。いまはな」
 メトゥス王は悪臭に鼻を押さえながら、血を流し、傷ついたヒースを虫けらでも見るような目でちらりと見た。それはヒース一人の命などはどうでもいいと思っている口振りだった。
「はっ!」
 メトゥス王の命令に、ヒースを打ち据えていた兵士はぴしりと直立する。ひっそりとした気配と共に、微かな物音が聞こえたのはそのときだ。薄暗い螺旋階段の壁に、ランプの明かりがぼうっと反射する。その中にシュイの銀色の髪が、整った顔立ちが浮かび上がるのを、ヒースは腫れ上がった目でかろうじて見た。
 シュイ……。
 ヒースは声を出すことができなかった。瞬きも忘れたように澄んだ瞳を凍りつかせたシュイが、ショックを受けたようすで鎖に繋がれたヒースを凝視している。その顔色はいまにも倒れてしまいそうなほど真っ白だった。微かに震える唇が言葉を紡ごうとするのを、ヒースは誰にも気づかれないよう瞬きをしてそっと制した。
 違うよシュイ、お前のせいなんかじゃない。お前は何も悪くない。
 事実、ヒースがこうなったのは誰のせいでもない、すべて自分の軽はずみな行動が招いたことだった。ヒースの思いが届いたように、シュイは微かに息を呑んだ。黙っているときは冷たく無表情にも見えるその顔が強ばり、水色の瞳が迷うように揺れるのがヒースにはわかった。
「こんなところまでわざわざお越しいただき申し訳ありませぬ。どうしても石さまに、早急にご覧になっていただきたい者がおりまして」
 メトゥス王がつくったような笑みを顔に張りつけ、シュイに告げる。シュイが何も答えないと、王は気分を害したように片方の眉を上げた。
「石さまは元々あまりお話しするのが得意ではありません」
 マーリーン公がささやくと、王は気を取り直したように「まあよい」と告げた。マーリーン公は無言で立つシュイに話しかけた。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。この者が暴れて手がつけられず、仕方なしにこうしている始末で……」
「嘘をつくな! お前たちがいきなり襲ってきたんじゃないか!」
 ヒースが暴れると、手首に繋がれた鎖ががしゃがしゃと鳴った。
「こいつ! おとなしくしてろ!」
 こめかみを殴打され、ヒースはうっ、と呻いた。マーリーン公は怒りに燃えるヒースを一瞥すると、口元に淡い笑みを浮かべた。
「ご覧の通りです。石さまの大事なご友人の方に手荒な真似はしたくないのですが、仕方ありませんね。衛兵――」
「はっ」
 マーリーン公に命じられた兵士が、ヒースの口に布を噛ませた。
「うー……っ! うぅー……、うー……っ!」
 獣のような唸り声を上げながら、ヒースは必死に抵抗する。暴れるヒースの頭が、兵士の頬骨のあたりをかすめた。
「くそっ、こいつ……っ!」
 兵士がヒースの胸ぐらをつかみ、殴ろうとしたそのときだ。ヒースの胸元から、首から下げていた袋がぽろりと零れ出た。その袋にマーリーン公が目をとめた。
「待て。その者が身につけている袋の中身を見せてみろ」
 ヒースははっとなった。マーリーン公に命じられた兵士がヒースの袋を奪おうとする。抵抗して逃げようとしても、両手を鎖に繋がれた身ではどうすることもできない。
 やめろ、シュイの石に触るな……っ!
「うぅー、うー……っ、うー!」
「これは……!」
 袋の中から零れ出たシュイの石が、マーリーン公の手のひらで光を放つようにきらめく。マーリーン公は矯めつ眇めつ石を眺めると、その顔に純粋な驚きを浮かべた。
「間違いありません。貴石です」
「おお……っ!」
 メトゥス王はマーリーン公から石を受け取ると、かっと目を見開いた。その目は食い入るように石を凝視し、顔には紛れもない喜色が浮かんでいる。
「貴石だ! なぜこの者が貴石を持っておる!」
「王が訊ねておられる。なぜお前がこれを持っている? 答えよ」
 マーリーン公に指示された兵士がヒースの口にはめていた布を外す。その瞬間、ヒースはメトゥス王に飛びかかった。が、すぐに鎖がぴんと伸びきって跳ね返されてしまう。
「やめろ……! その石に触るな……!」
 必死に抵抗しながら、ヒースはシュイの石を取り戻そうとする。マーリーン公はそんなヒースを冷たく眺めた。
「素直に答えるわけがないか。もうよい、その布をはめよ」
 兵士が再び布を手に近づく姿を見て、ヒースはぎくりとした。
「頼む、その石を返してくれ……! それは大切なものなんだ……!」
「こいつ暴れるな!」
 二人がかりで押さえ込まれ、ヒースは口に布をはめられてしまう。もはやヒースの存在など目に入らないメトゥス王に、マーリーン公がささやいた。
「これさえあればひとまずは他国への牽制になりましょう。ですが、貴石一粒では時間稼ぎがせいぜいです。すぐに新たな貴石が必要になりましょう」
「うむ……」
 メトゥス王は大切そうにシュイの石を懐にしまうと、マーリーン公を見た。
「後は任せたぞ」
「はっ」
 螺旋階段を上っていくメトゥス王の背中を、ヒースは食い入るように目で追いかける。
 やめろ、その石を返せ……! その石はシュイのものだ……!
「こいつ、いい加減にしないか」
「……っ!」
 腹を木の棒で強く殴られ、涙が滲んだ。だが、口に布を噛んでいたおかげで悲鳴をシュイに聞かれずにすんだ。がくりとうなだれた額の傷口から流れた血が目に染みる。
「痛みを感じてないわけじゃないでしょうに、案外しぶといですね」
 ぞっとするほど冷たい声だった。虫けらを見るようなマーリーン公の目に、ヒースの心臓はぎゅっと凍りついた。実際王都側が村にしたことから考えても、彼らにとってヒースや他の者の命などはどうなっても構わないのだろう。
 ヒースの胸にやり場のない怒りと悲しみがこみ上げる。それは大切なものを無惨に奪われたやり切れなさと深い悲しみだった。
 ちくしょう……!
 そのときヒースは、震えるシュイに気がついた。
 シュイ……!
 シュイの顔色は真っ青だった。その場に立っているのもやっとの状態で、凍りついた瞳は何も映してはいないようだった。
 シュイ、大丈夫だ。こんなこと何でもない。
 ヒースは必死だった。身体の痛みなんて何でもない。ただ壊れたように立ち竦む幼なじみに、ヒースは心の中で必死に呼びかけた。たとえ言葉にしなくても、ヒースが知るシュイなら、きっと伝わると信じて。
 凍りついたシュイの瞳の奥に、何かがちらりと動いたのがわかった。その瞳が驚いたように見開かれ、ヒースを見て透明な膜が潤む。さっきまで血の気が引いていたシュイの頬にわずかな血色が戻り、ヒースはほっとした。
 そうだ、つらいなら顔を背けていればいい。お前なら俺が言いたいことがわかるだろう?
 ヒースたちは見つめ合うように視線を合わせる。そのとき、気持ちが通じ合ったようにふっと空気がゆるんだ。そんな自分たちのようすをマーリーン公が何かを考えるようにじっと眺めていることに、ヒースは気づかない。
「恐れ入りますが石さま、大切なご友人の方に、我々もこんな仕打ちをしたくはないのですよ」
 満足そうな笑みを浮かべるマーリーン公に、ヒースははっとなった。胸の中が不安でざわめく。
「我々は何よりもこの国のため、いま実際に苦しんでいる民のために仕方なく行っているのです。なに、あなたさまが涙の一粒や二粒、流してくれたらこんなことはすぐにやめさせましょう。すべてはあなたさま次第なのですよ。どうかよくお考えいただきますよう」
 マーリーン公が兵士に合図をする。シュイがはっとしたようにヒースの方へ近づこうとするのを、傍にいたフレデリックが制した。棒を振り上げた兵士の口元に微かな笑みが浮かぶのをヒースは見た。
「……っ!」
 何度も繰り返し殴打され、ヒースは逃げることもできない。ぐうっと喉の奥からおかしな声が漏れた。気丈にも意識を保っていられたのはそれまでだ。自分に向けられる容赦のない暴力をどこか他人事のように感じながら、やがてヒースは完全に意識を失った。