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「いしものがたり」第26

 ピシャ……ンと、水の音が聞こえた。どこかに汚水がたまっているのだろう、ひどい臭いがした。だかそれもしばらくすると鼻が麻痺し、汚水の臭いなのかそれとも自分から臭っているのかわからなくなった。
 最後に痛めつけられたときにできた傷口が化膿し、熱を持っていた。激しい悪寒に全身を震わせながら、ヒースは必死に意識を保とうとする。
 あれからどれくらい時間が経っただろう。もうずっと長い間こうしている気も、反対にまだそれほど経っていない気もした。時間の感覚がおかしい。
 ヒースがこの牢に捕らえられ、しばらくのうちはましだった。どんな脅迫も説得もシュイには効かず、彼が新しい貴石を生み出すことは一度もなかった。次第に王都側に焦りの色が浮かびはじめたのはそれからだ。元よりヒースのことなどはどうでもよかったのだろう。ヒースに与えられる拷問は次第に熾烈さを増した。
 声は枯れ、その日が終わると治療を施された。古い傷が癒える間もなく、またすぐに新たな拷問が加えられる。いっそのこと殺してくれと願いたくなるほど、それは永遠と続くまさに地獄だった。
 しかしある日を境にようすが変わった。それまで一日と置かず拷問が加えられていたのに、ふつりとなくなったのだ。一日に一度、ほんの気持ちばかりの水と食料が与えられるだけで、ヒースが捕らえられているこの牢には誰も近寄らなくなった。はじめのころは何度もヒースの元へ訪れたシュイも、ここ数日姿を見ていない。
 こんなことをしても無駄だと、王都側が諦めたのならいい。だけどもしそうじゃないとしたら……。不安がヒースの胸をしめつけ、嫌なことばかりを想像してしまう。
 シュイ……。シュイは無事だろうか。俺がこうなったことを、自分のせいだと責めていないだろうか。
 最後に拷問を受けたときに、ヒースはひどい傷を負っていた。そのときできた傷に菌が入り、おそらくあまりよくない状態になっている。
 寒い……。
 ヒースは熱で朦朧としながら、鎖に繋がれたままの状態でうなだれている。そのとき、声が聞こえた。
 ――ヒース。
 ヒースが振り返ると、そこには懐かしい我が家があった。
 母さん……?
 母の隣で幼い妹が料理の手伝いをしている。祖父の横で、父が道具の手入れをしていた。
 父さん、じいちゃん……。
 じわりと涙が滲んだ。そんなヒースを見て、母は驚いた顔をすると、その手がやさしくヒースに触れた。導かれるまま、ヒースは家族の団欒に混じる。
 父と祖父が話をしている。妹が母に甘えるのを眺めながら、これは夢だとヒースは頭のどこかで気づいていた。だって母さんはもういない。幼い妹や父や祖父、村のみんなはあのとき死んでしまったから。生き残ったのは自分ただ一人だ。いまヒールがいるこの家も、実際にはこの世にもう存在しない。
 妹の小さな手が、ヒースの手をぎゅっと握った。温かな感触に胸が詰まった。切ないほどの痛みに、胸がぎゅうっと苦しくなった。ヒースは膝をつくと、幼い妹の身体を抱きしめた。突然泣き出した兄に、妹が驚いている。
 ――あらあら、どうしたの?
 母は柔らかい声で告げると、子どものように泣くヒースの背をやさしく撫でた。温かな手の感触に、これが夢だとは思いたくなくなる。
 母さん、ごめん……! 守ってあげられなくてごめん……!
 目が覚めるとそこは冷たい地下牢の中で、ヒースは一人だった。汚れた頬に筋をつくるように、涙が伝い落ちる。 
 そのとき微かな物音が聞こえた。誰かがヒースのいる地下牢に下りてくる。やがて門の鍵が外される音がした。ヒースが気づかない振りをしていると、その人物は牢の中に入ってきた。
「とっくに気がついているのでしょう? くだらない真似はおよしなさい」
 ヒースが目を開けると、マーリーン公はその口元に淡い笑みを浮かべた。
「――何しにきた……?」
 ヒースは掠れた声を出すと、マーリーン公を睨んだ。
「おや、まだ睨む気力がありますか。さすがですね。しかし私もすっかりあなたに騙されましたよ。まさかあなたがモンド村の生き残りだとはね」
 ヒースが黙っていると、マーリーン公は何かを考えるように、ヒースに近づいた。
「しかし石さまにも困ったものですね。あなたが痛めつけられているのを目にしても顔色ひとつ変えない。あの方には人としての情というものがないのでしょうか」
「お前に言われたくない」
 シュイは何も感じていないわけじゃない。それどころか、自分のことで誰かが傷つけられることを何よりも恐れている。だが、それを教えてやるつもりは毛頭なかった。
「……シュイはどうしている? 無事なのか?」
 ずっとヒースの元を訪れていたシュイが、ここ数日姿を見せていないことが気になっていた。マーリーン公はそんなヒースの質問には答えず、何かを考えるようにじっと見た。
「この者に水を。それから手の鎖を外しておあげなさい」
「しかし、何度も逃げようとしていて危険です……」 
 躊躇う兵士の声に、マーリーン公は「さすがにこの状態で牢から逃げるのは不可能でしょう」と笑みを浮かべた。
 頭の上で吊されていた鎖が下ろされ、鉄輪が外された。赤くミミズ腫れした手首をさすりながら、ヒースはほっとした。しかし決して警戒を解いたわけではなかった。いったい何を考えている……?
 兵士から与えられた水を、ヒースは警戒しつつも夢中で口をつける。思っていた以上に身体の消耗は激しく、うまく飲み込むことができない。零れた水が床に染み込んだ。苦しそうに咳き込むヒースを、マーリーン公は何を考えているのかわからない瞳でじっと見つめた。
 目的はわからない。だが、これは滅多にないチャンスだ。
「……シュイに何をした? 俺たちをどうするつもりだ?」
「シュイ? ああ、石さまのことですか。そう言えばあなたたちは幼なじみでしたね。何をしたとはどういう意味ですか、人聞きの悪い」
 何を言われているのかわからないといったマーリーン公の姿に、けれどヒースは騙されなかった。
「村にいたころのシュイはあんなんじゃなかった。シュイが変わったのはこの国にきてからだ」
「あんなんじゃなかったと言われても私にはわかりかねますが、あなたが知る石さまとは何年も昔の話でしょう? 人は変わります。石さまも大人になられたのでしょう」
「違う……っ!」
 大声を張り上げた瞬間、ヒースは激しく咳き込んだ。兵士が慌てたようすで武器を手にしても、ヒースは止めなかった。いまにも崩れ落ちそうな身体の力を振り絞り、マーリーン公を睨む。
「そんなんじゃない……っ!」
 村にいたときからシュイはおとなしくて、あまり自分の意見を主張するようなことはしなかったけど、自然の木々や森にいる動物たちと心を通わせ合うように、いつも幸せそうに笑っていた。誰よりも傷つきやすく、気持ちのやさしかったシュイが、あんなに何もかも諦めたような悲しい瞳をしている。
「私たちが何かをしたのだと考えているようですが、それはあなたたちも同罪ではありませんか?」
「……何? お前たちと同罪だとはどういう意味だ?」
「五年前、石さまを迎えにいった者から報告は受けています。私どもの使いがいったとき、村の誰一人反対する者はいなかったと。まるで差し出すように喜んで送り出してくれたと」
 マーリーン公の言葉に、ヒースははっきりと顔色を変えた。「それは……」と言い掛け、だがその後に続ける言葉が見つからない。
「それは何です? 何か反論はありますか?」
 違う……っ、という叫びを、ヒースは呑み込んだ。
 ――ヒース、おれいくよ。
 王都から迎えがきたとき、村の人たちは諸手を挙げて喜んでいたけれど、ヒースだけはシュイが本心では村にいたいと望んでいることに気づいていた。シュイが王都へいくと決めたのは、そのほうが皆にとって喜ばれると知っていたからだ。はじめからシュイに選択肢などはなかった。
 そうだ、自分は気づいていた……! しようと思えばシュイを連れて逃げることだってできたのに、自分はそれをしなかった……! それはなぜだ……?
 それはヒースの中にも迷いがあったからだ。シュイが望むならたとえどうなっても構わない、その気持ちに嘘はない。だけどその結果引き起こされる出来事に対して、ヒースの中にあったほんのわずかな迷いや不安を、幼なじみの少年は気づいていたのではないか? だから王都の命令に素直に従ったのだ。ヒースや村の人たちのために。
 あのときもし止めていたら。そう後悔しなかった日はない。そんなヒースの心の迷いを、後ろめたさを、マーリーン公は見透かしたように微笑んだ。
「言ったでしょう。私たちが何かしたというのなら、あなたたちも同罪なのですよ。我々だけを責めることはできません」
 ヒースは唇を噛みしめる。否定したいけれど、ヒースにはマーリーン公の言葉を否定できなかった。何よりも自分が一番、マーリーン公の言っていることは正しいとわかっていた。青ざめた顔で震えるヒースを、マーリーン公が眺める。
「――これは私の独り言ですが、我が国はいま大変な状況下に置かれています。周辺諸国に潜ませている間諜によりますと、我が国への進行の準備を進めているとか……」