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「いしものがたり」第33話

 ぐおぉぉ……っと、深い谷底からまるで何かの生き物が咆哮するように、風が吹き抜ける。痛いほどの風圧に顔をしかめながら、ヒースは手を伸ばし、前を落ちていくシュイの身体を庇うように腕に抱え込んだ。
 あれほど遠かった崖の底が見る見るうちに近くなる。深い木々に囲まれて、水面の一部がきらりと光るのが見えた。
 死にたくなんかない――!
 ヒースは迫りくる衝撃から少しでもシュイを庇おうとする。ぎゅっと目をつむったその瞬間、その声は聞こえた。
 ――……せ。自分が本当は何者なのか思い出すんだ。
 思い出す? いったい何を思い出すというんだ……?
 そのときだった。ヒースの脳裏に突如流れ込むように満天の星空が見えた。それから山に生きる大小さまざまな生物のことを。悠久のときのなかで、かつて人ではなく龍だったとき、自分は自然やそこに暮らす人々の営みを護っていた。龍である自分の側には、いつも石がいた。龍は幸せだった。永遠に続くかと思われた平穏な日々は、ある日その石が姿を消し、人間の手によって命を奪われたことで終わりを告げた。龍は嘆き悲しんだ。その悲しみと怒りは深く、山を崩した。あふれた川の水は人間が暮らす村を襲い、人々を呑み込んだ。災厄は100日間続き、101日目の朝、龍はついに自らの身を滅ぼした。
 ああ、そうか、自分はかつて龍だった――……。
 かっと身体が燃えるように熱を帯びる。次の瞬間、内側から目を開けていられないほどの眩い光が射し、それは莫大なエネルギーとなってヒースの身体を包み込んだ。大地が割れるほどの地響きと共に、空が一瞬で暗くなる。ざあっという音と共に激しい雨が打ちつけるように大地に降り注ぎ、雲の合間から光が差すように雨粒がきらきらと金色にきらめいた。その中に、青と緑の巨大な二匹の龍が空に浮かんでいた。
「龍神さまだ……! しかも一匹じゃない、二匹もいるぞ……!」
「そんな、そんなことが……!」
 上空に二匹の龍が絡むように浮かんでいるのを、人々は恐れおののいたように地面にひれ伏す。そのようすを、自分がかつて龍であることを思い出したヒースは上空から見下ろしていた。ヒースの手の中には、崖から落ちたときのショックで意識を失ったシュイがいた。
 ――ようやく自分が何者か思い出したか。ずいぶんと遅かったな。
 ヒースの目の前に、緑色の龍がいた。翡翠色の目をしたその龍が何者であるかを、ヒースはもうとっくにわかっていた。いや、すべてを思い出したといったほうが正しい。その者の言葉が直接脳裏に聞こえてきていることにも、ヒースは驚かなかった。翡翠色の瞳が悪戯にきらめく。
 ――どうだ、自分が何者かを思い出して、気が変わったか? 俺と一緒に世界を手に入れようという気になったか?
 ヒースは微かに首を振った。
 ――いや、俺はいまのまま、ただのヒースでいい。
 緑の龍は、ヒースがそう答えることをはじめからわかっていたように、片方の眉をひょいと持ち上げた。
 ――ふん……。相変わらず面白味のないやつだ。
 それから何かに気づいたように、ヒースの手元に視線を落とした。
 ――その小僧も気づいたか。
 新しい姿に生まれ変わったヒースの身体に、小さな手が触れた。シュイだ。シュイが気がついたのだ。
 ――……ヒース?
 シュイの瞳はヒースを見て、驚いたように大きく見開かれた。
 ――シュイ……。
 かつて自分が龍であったことなどヒース自身すっかり忘れていたのに、こんな姿をいきなり目にしたシュイが驚き、恐怖を感じないわけがない。だが、そんなヒースの不安は杞憂だった。シュイはぱちぱちっと瞬きをすると、ヒースが少しでも力を入れ間違えたら自分の身体などひとたまりもないであろうその指に、躊躇なく抱きついた。
 ――そうか、きみは龍だったんだね。なぜだかわからないけど、もうずっと知っていた気がするよ。
 シュイは少しも怖がるようすもなく驚くヒースの顔を見ると、にこりと微笑んだ。ヒースは感動したように胸が詰まった。
 ――シュイ……。
 ――……ふん。まったくつまらねえ。
 そのとき、すぐ側でそんな声が聞こえた。
 ――アルド。
 身を翻し、そのままどこかへいこうするアルドを、ヒースは呼び止めた。
 ――どうして助けてくれた? 見捨てることもできたのに、何度も助けてくれただろう?
 ヒースの問いかけにアルドは目を細めると、面白くなさそうにふんと息を漏らした。
 ――昔、その石が人間の世界に興味を持ったのは俺のせいだからだよ……。俺が唆したからだ。
 ――なぜそんなことをした?
 はじめて知る事実に、ヒースは大きく目を瞠った。アルドはヒースの問いかけには答えなかった。しばらく考えるように沈黙した後、アルドが告げたのはヒースが訊ねたのとは別の言葉だ。
 ――その石を失い、本来の姿も忘れて何度人間の姿に転生しても、お前は記憶がないくせに、いつもその石を追い求めた。何度も何度も、そりゃあもうしつこいくらいにだ。今回はさすがに諦めたかと思ったが、何も変わりゃしねえ。お前が大切に思うのはいつもその石のことだ。たとえ自分の命がなくなろうともな。
 ――だから何度も助けてくれた……?
 アルドが首を回し、ヒースを見る。その澄んだ翡翠の瞳に、深い眼差しに、ヒースは見覚えがあった。
 遠い昔、ヒースがまだ生まれたての小さな青龍だったとき、その側には兄弟と思しき緑龍がいた。二匹の龍は一緒に育ったが、やがて成長するにしたがって、その関係は少しずつ変化していった。青龍に、兄弟の龍以外でもっと大事にする存在ができたからだ。――シュイだ。
 ――アルド、俺は……。
 言い掛け、躊躇うようにヒースは口を閉じる。何を言っても言い訳になってしまう気がした。そして、きっとアルドはヒースの同情を何よりも好まない。
 アルドはヒースの気持ちを見透かしたように目を細めると、大地に跪く人間たちを見下ろした。
 ――ふん。つまらねえ……。
 ヒースは自分によく似た色の異なる龍をじっと見た。いまならよくわかる。口ではさんざん文句を言いながら、なぜアルドが何度も自分を助けてくれたのか。最後まで見捨てようとしなかったのか。
 ――お前はこれからどうするんだ?
 アルドはヒースを見ると、ヒースの手の中にいるシュイを見た。怯えたようすもなくまっすぐに自分を見返すシュイを。
 ――その石を滅ぼしたら何かが変わると思ったが、お前は何も変わりゃしねえ。だからもういい。
 ――アルド……。
 すまない、と謝罪を言うのは違う気がした。だからヒースは一番相応しいと思う言葉を告げる。
「ありがとう」
 ヒースの言葉に、アルドはわずかに片方の眉を上げた。それがアルドなりの承諾だと、そのときのヒースにはわかっていた。
 ――また千年後、ようすを見にきてやるぜ。
 アルドは身を翻すと、今度こそ振り返ることなく姿を消した。
 いつの間にか雨は止んでいた。ヒースは大地に降り立つと、シュイを傷つけないよう、そっと爪を広げた。姿を龍から人へと変化させると、その肩にアズールが止まった。甘えた仕草を見せるアズールの頭をそっと撫でながら、ヒースは地面にひれ伏す人々を複雑な思いで眺める。
 ヒースの気持ちの上では何も変わっていないのに、すべてが違って見えた。なぜ忘れていたのだろう。何もかもがいままでとは違った。仮にいま自分がこうして人間の姿で立っていたとしても、自分は龍だ。そのことをヒースははっきりと理解していた。
「シュイ、いこう」
 ヒースは腕を伸ばすと、シュイの手を取った。その場を立ち去ろうとするヒースたちに、人々の間に動揺が走った。
「お待ちください……! いままでのことはすべてお詫びいたします!」
 マーリーン公の言葉にヒースは足を止め、振り返った。その顔を見ると、耐え難い怒りにかられる。正直いまでも殺してやりたいほど憎い。王都の人間がヒースたちに、そしてシュイにしたことは決して許せるものではない。
「……これまでのことは問わない。だけどもうお前たちの好きにはさせない。まだシュイを自分たちのいいように使うつもりなら、俺は許さない」
 踵を返したヒースの身体に縋りつくように、マーリーン公が止めた。
「お待ちください。どうか、我々を、いえ、アウラ王都の民をお見捨てにならないでください……!」
「……どういうことだ?」
「確かに私どものやり方は間違っていたのかもしれません。あなたさまがお怒りになるのはもっともでしょう、言い訳の言葉もございません。ですが民のためというのは本当です。このままでは、近々我が国は他国との争いを避けられず、多くの民が死ぬでしょう。あなたは罪もない人々を見捨てるおつもりですか?」
 この男の言葉は信用ならない。これまで散々ひどい目に遭わされてきたはずだ。わかっているのに、ヒースはマーリーン公の言葉を無視することができない。
「……俺に何をさせるつもりだ?」
 ヒースの気持ちがわずかに動いたことを見透かしたように、マーリーン公は口元に淡い笑みを浮かべた。 
「なに、簡単ですよ。あなたさまがこの国の王になればいいのです。石さまの貴石などがなくても関係ない、あなたさまの存在そのものが我が国を、いやこの世界を平和に導くでしょう」
「いったい何を言っておる!? この国の王は余だ! それ以外の存在など認めはしない!」
 仰天したのはメトゥス王だ。そんなメトゥス王を、マーリーン公は冷ややかな眼差しで見た。
「その目は何だ!? 余を何だと思っておる!? 皆の者、何をしておる!? 早くこの無礼者たちを捕らえよ!」
 一人わめき散らすメトゥス王に、兵士たちが困惑を滲ませる。
「……俺には関係ない」
 ヒースが答えると、周囲は落胆の空気に包まれた。だが、そのままいこうとしたヒースを止める者があった。
「……待って」
「シュイ?」
「この人の話を聞いて。ちゃんと話をしたほうがいいと思う」
 シュイの言葉に、人々は戸惑うように顔を見合わせた。だが、その瞳には縋りつくような希望の光が浮かんでいる。
 ヒースは驚いた。一番王都と関わりを持ちたくないと思うのは、シュイだと思っていたからだ。
「シュイ、お前何言ってる?」
「ヒースが王になったら、人々は幸せになれると思う」
「だけど……」
「おれはもう二度と罪のない人々が苦しむ姿を見たくはない。ヒースも本当は迷ってる」
「シュイ……」
 もちろんヒースだって罪のない人々がどうなってもいいとは思わない。だけどこれまでのことを思うと、これ以上この国に関わりたいとは思わなかった。
 自分の中にある後ろめたさや迷いを見透かされそうで、ヒースは気まずげに目をそらす。そのときだ。
 ――だったらお前がそんな国をつくればいい。
 ふいに、以前アルドに言われた言葉が蘇り、ヒースははっとなった。福む者だけが福み、貧しい者はますます苦しむこの国の在り方を、ヒースは間違っていると思った。だけどそんな新しい国を、未来を、いまの自分ならひょっとしたら変えられるのかもしれない。
 ヒースは迷うように幼なじみの少年を見た。
「シュイは俺が王になったら人々が苦しまずにすむと思うか……?」
 ヒースの問いかけに、シュイは澄んだ水色の瞳をまっすぐに向けると、
「思う」
 はっきりと答えた。
「ヒースならきっと、人々の気持ちに寄り添い、罪のない人々が死ななくてはいけないこの国の有様を変えることができると思う」
 シュイの瞳にはヒースも知らない、深い悲しみの色があった。それから、人々を思う労りの心が。その目を見た瞬間、ヒースの中でこれまで抱えていた憎しみや恨み、そして迷いがすーっと溶けて消える気がした。王都にされたことをすべて忘れたわけではない。だけど――。
 ヒースは頭を下げるマーリーン公を振り返った。
「……お前のことを信用したわけじゃない」
「承知しております」
 マーリーン公が口先だけで微笑む。マーリーン公の言葉にまんまと乗せられた自分を、ヒースは苦々しく思った。
 ヒースたちのやり取りを見守っていた兵士たちが、新しく誕生した王に忠誠心を示すように、次々に片膝をつき、頭を下げる。
「いったい何を勝手に決めておる! アウラ王都の王は余ぞ!」
 その中で、メトゥス王だけは異を唱えるかのように、真っ赤な顔で叫んでいた。