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「いしものがたり」第34話

 雪解け水が流れるように、木々は芽吹き、花の蕾は綻びはじめる。山に春がきていた。動物たちは新しい命を生み、森の中を駆け回る。そして人々の世界にもまた春が訪れていた。
 人々の隙間をすり抜けるように、ヒースは雑踏を歩く。その肩にはアズールが止まっていた。ときおりヒースの正体に気づいた者から、気軽に声をかけられる。
 ヒースがアウラ王都を統べるようになってから、早くも三年の月日が流れていた。幸いなことに、周辺諸国との戦はいまだに起きておらず、罪もない人々が無用の血を流すこともない。ヒースたちがアウラ王都にとどまるにあたって、最初にはじめたのが絶対王政や貴族社会の廃止だった。当然これまで甘い汁を吸っていた一部の貴族たちからは猛反発を受けたが、ヒースはこれだけは譲る気はなかった。貴族の中にはヒースを新たな王にして傀儡にすることを企てる者もいたが、ヒースが望むのは王としてアウラ王都に君臨するのではない、誰もが平等で幸せに暮らせる社会をつくることだった。ヒースが権力の象徴として君臨すれば、また新たな差別を生み出してしまう。そのことをヒースは望まなかった。
 マーリーン公はいまのところはおとなしくしているが、ヒースは過去のさまざまな経緯から、彼のことを信用したわけではなかった。
 しかし誰もが平等に暮らせる国をつくるとひとことで言っても簡単ではない。そのためにはクリアしなければならない課題が山のようにあった。だが幸いなことに、ヒースが目指す新たな国づくりを手助けしてくれる仲間たちもいる。
「……っと」
 突然前からぶつかるように走ってきた子どもの身体を両手で受け止める。アズールが驚いたようにヒースの肩から飛び去った。子どもはまだ十歳くらい、その服装はどこか垢染みていて、袖の辺りはすり切れたように穴が開いている。ゆるんだ襟元からのぞく痩せた身体に痣があるのを見て取り、ヒースは眉を顰めた。
「前を見ないと危ないぞ」
 子どもはぎょろりとした目でヒースを睨み返してきた。そのまま逃げようとする子どもの腕をつかみ、ヒースはその子が隠し持っていた自分の小金が入っていた袋を返してもらう。ヒースに見つかって、子どもがあっという顔をした。さてどうしたものか。
「掏摸ですね」
 ヒースは困惑したように、背後から声をかけた人物を振り返った。碧眼の兵士――アルベルトは護衛などいらないというヒースの言葉を聞かず、自らの意思で護衛を名乗り出た変わり者だ。そして、ヒースが目指す新たな国づくりのため、協力をしてくれる仲間の一人でもある。
「おおかたヴェルン王国から逃げ出してきた子どもでしょう。彼の国では後継者争いで騒がしいと聞きます。ひょっとしたら戦になるかと……。国が落ち着かないと、国民は疲弊します。おおかた食べる物に困って、逃げ出してきたんでしょう」
「そうか……」
 隣国にあるヴェルン王国は、オースティンの国だ。ヒースがアウラ王都に残ることを決めたとき、ヒースは一度だけシュイと共に彼に会いにいった。ヒースの正体が龍であることを知ったときはさすがに驚いて言葉も出なかったようだが、何も知らないときもヒースのことを助けてくれた彼らしく、その剛胆さと度量の大きさで、あっさりと受け入れてくれた。アウラ王都の国内が落ち着くまではなかなか会いにいくことも叶わなかったが、それからも交流は続いていた。その彼はいま自国の状況にどれほど胸を痛めているだろう。
「どうしますか、役場に突き出しますか」
 役場という言葉に、子どもがびくっとした。慌ててその場から逃げ出そうとするが、ヒースは子どもの身体を離さなかった。
「そうだなあ……」
 もちろん役場に突き出す気は毛頭なかった。アルベルトもヒースにその気がないことはわかっているはずだ。ヒースは考えるように痩せた子どもを見た。そのとき、アズールが再びヒースの肩に舞い降りた。
「わっ」
 先ほど掏摸を働いたときはよく見ていなかったのだろう。突然現れた大きな鷹に、子どもは驚いたように怯えた表情を浮かべた。野生の鷹を連れた正体不明の二人組に、子どもは全身で警戒しながら逃げ出す気配を窺う。そのとき、子どもの腹がぐう~っと鳴った。
「そうだな、まずは飯だな」
 ヒースの言葉に、子どもはぱっと身を翻して逃げようとした。しかしヒースがその身体を抱き上げると、子どもはぎょっとなったように目を丸くした。
「離せー! くそばかやろう! おれは龍神さまに会いにきたんだ!」
 じたばたとヒースの腕の中で暴れる子どもを、ヒースは困ったように抱きとめる。そのようすを、アルベルトが面白そうににやにやと眺めていた。
「……なんだよ、何か言いたそうだな」
「いえ別に」
 ヒースはふん、と鼻を鳴らすと、それ以上議論を続けることもなく、暴れる子どもを抱きかかえたまま町の中を歩く。ばたばたと手足を振り回して暴れる子どもを抱きかかえるヒースを、町の人は笑いを堪えるような、微笑ましそうな何とも微妙な表情で眺めている。
「龍神さま、その子どもはどうしたんですか?」
「龍神さま、焼き串はいかがですか? 肉汁がじゅわっと口の中であふれてうまいですよ」
「ありがとう。また今度もらうよ」
 道すがら町の人からかけられた言葉に、子どもはぎょっとなったように目を見開いた。
「あんたが龍神なの!?」
 子どもの問いに何て答えようか迷ったヒースは、その目に浮かぶ思いがけない真剣な光に息を呑んだ。
「お願い。あんたが本当に龍神さまなら、おれの村を助けて。みんなを助けて」
 そのとき、ある一軒家からヒースたちに気がついた子どもたちが群がるように、わあーっと駆け寄ってきた。騒ぎを聞きつけて、家の中からシュイが出てくる。
「ヒース」
 シュイはヒースが抱いている子どもに気がつくと、微かに首をかしげた。
「さっき町でばったり会ったんだ」
 シュイが姿勢を低くして子どもの目線に合わせると、その間もヒースの腕の中で怯えていた子どもは、驚いたように目を丸くして、食い入るようにシュイを見ていた。再び子どもの腹が鳴った。
「ああ、お腹がすいているんだね。いますぐ食事にしよう」