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「いしものがたり」第35話

 シュイが振り返ると、すぐ傍らに控えていたフレデリックが先に家の中に入り、食事の準備をする。そう、シュイを逃がした罪でマーリーン公に捕らえられていたフレデリックは、その後無事解放され、シュイの護衛官として残ったのだ。アルベルトやフレデリック以外にも、自らの意思で王都に残った兵士は大勢いる。サリムもときどきマリーと一緒にこの家を訪れて、手伝いをしてくれたり、子どもたちのよき遊び相手になってくれる。だがアシュリーは最後までヒースとは相容れなかった。シュイに負わされたけがが完治した後、アシュリーは兵士を辞め、故郷へと帰っていった。
 そのとき、シュイが子どもの例のあざに気がついた。シュイの視線を感じて、子どもは慌てたように傷を隠す。
「どこかけがをしていないか、少しだけ見せてもらえるかい?」
 シュイがやさしく告げると、子どもは隠していた傷を見せた。シャツを脱いだ子どもの身体は、よく見れば傷だらけだった。あばら骨が浮き上がった痩せた身体に、新古さまざまな傷がついている。シュイが調合した薬を塗っている間にも、子どもは片時もシュイから目が離せないといったようすでじっと凝視していた。
「少しだけ染みるよ。ああ、偉いね、よく我慢した」
 新しい衣服に着替えさせ、シュイがその頭を撫でてやると、子どもは堪え切れなくなったようにぎゅっとしがみついた。肩を震わせて泣く子どもの背中を、シュイがやさしく撫でる。
「石さま、その子どうしたの?」
「どこか痛いの?」
 この家にいる子どもたちのほとんどが、さまざまな理由で親を亡くし、町で暮らしていた子どもだ。たくさんの小さな手が慰撫するように、泣いている子どもをぺたぺたと撫でた。
「だいじょうぶだよ、ここにいたら何もこわいことはないよ」
「しんぱいしなくてだいじょうぶだよ」
 子どもたちの反応に、戸惑っていた子どもの腹がぐぅううと大きな音を立てた。
「おなかすいてるの?」
「もうすぐご飯の準備ができるよ。一緒にたべよう」
 年長の子どもに手を引かれ、いまだ緊張を滲ませる子どもは素直に席に着いた。
「さすが石さまだ」
 彼らのようすを眺めていたアルベルトが、感心したように呟いた。もちろんヒースも同感だった。そのとき、他の子どもたちと一緒におとなしくテーブルについた子どもが椅子から下りると、ヒースの元へきた。思い詰めた眼差しに、ヒースは膝をつき視線を合わせる。
「父さんはせんそうにいって、もどってこなかった。母さんも、おとうとも、みんな食べるものがなくて死んだ。でも、村にはまだ生きているひとがいる。お願い、龍神さま。村のひとを助けて――」
 澄んだ子どもの瞳からあふれるように涙がぽろぽろと零れ落ちた。魂からの叫びは、ヒースにも覚えがあった。子どもの願いは何としてでも叶えてやりたい。ひょっとしたらヒースが龍神として力でどうにかしようとすれば、それは不可能なことではないかもしれない。だけど、それではだめだ。何の解決にもならない。そして他国には他国の事情があり、ヒースには簡単に手が出せない。
「……ヴェルン王国のことは勝手にどうこうはできない。それはヴェルン王国でどうにかしなければいけないことだからだ。恐怖で一方的に誰かを支配することはできる。でも、それはしてはいけないことだと思う」
 アウラ王都によって、ただ一方的に虐殺された家族や村人たちの姿が脳裏に浮かぶ。あれは二度としてはいけないことだ。たとえどんな事情があったとしても。
「ヒース……」
 気遣うようなシュイの声が聞こえた。ヒースの言葉に、子どもの瞳から光が消えた。ヒースは肩を落として席に戻ろうとする子どもの腕をつかんだ。
「だけど約束する。ヴェルン王国のことはこのままにはしない。どうしたらいいか、絶対に何か方法を考える。約束する」
 大きく見開いた子どもの目から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
「だいじょうぶだよ、龍神さまはきっと約束をまもってくれる」
 そう言って子どもの手を握ったのは、同じく親を奪われたエドガーだ。ヒースがこの国に残ることを決めたとき、まずつくったのがこの家――住む場所がないような子どもたちが安心して暮らせる場所をつくることだった。エドガーも、この家にきたばかりのころは、世の中のすべてを恨むような暗い目をしていた。
 あのりんご売りの子どものような子を、一人でも多くなくすこと。それがヒースの願いだった。過去は消せない。だけど、未来なら変えてゆくことができる。
 ご飯を食べた後、子どもたちに手を引かれて野原に出る。紫の花が風に揺れていた。この国の象徴である、エリカの花だ。
 自分の手を握る子どもの手を離し、ヒースが野原の真ん中に立つと、子どもたちがわあわあと囃し立てた。まだ何が起こるかわからない子どもが、周囲のようすにきょろきょろとしている。
 ピューイと鷹の鳴き声が聞こえた。アズールだ。アズールが大空を旋回する。
 ヒースは意識を集中すると、その姿を人から龍へと変えた。わあっと歓声が上がる。はじめてヒースの変化を目の当たりにした子どもが、その大きさに怯えたような表情を浮かべた。
「だいじょうぶだよ、龍神さまはぼくたちを絶対に傷つけたりはしない」
 ――シュイ。
 ヒースが心の中で呼びかけると、シュイが龍になったヒースの側に近づく。ヒースはシュイを傷つけないようその指で慎重につかむと、次の瞬間空へと飛び立った。
 野原に立つ、子どもたちやフレデリックとアルベルトの姿がどんどん小さくなる。その分空が近くなり、風を切る心地よさに、ヒースはぶるりと身震いした。
 龍神として生きることに、ヒースはいまでも迷いがある。だけどそんなとき、決まって思い出すのは、この国の在り方を憂いたヒースに、だったらお前がそんな国をつくればいい、と言ったアルドの言葉だった。アルドはいまどこでどうしているのだろうか。千年先、また会いにくるさと言ったアルドの言葉が蘇る。いつか龍神などの存在がなくとも、人々が自由に安心して暮らせる国になればいい。そのために自分はできる限りがんばろう。
 ヒースたちの眼下に懐かしい山や森が姿を現す。太陽の光を浴びて、湖面がきらりときらめいた。
 ――ヒース、見て。おれたちの森だ。
 頭の中に、シュイの喜びの声が伝わってくる。ヒースはシュイの目によく見えるよう、スピードを落とす。

 遠い昔、世界のはじまりには龍がいて、自然界や人々の暮らしを守っていた。龍の側にはいつも石がいた。龍と石はいつも一緒で、片時も側を離れることはなかった。
 いまではほとんど知る人のいない、遠い昔の話――。

                                了