見出し画像

「いしものがたり」第28話

 澄んだ水の匂いがした。頬にさらさらとしたものが落ちてくる。目を開けると、冬の空が見えた。
「ヒース」
 シュイ……? これは夢か……? 
 瞼を開いたヒースの頬に、まるで銀の糸を紡いだようなシュイの長い髪がさらさらと零れ落ちた。滑らかな指がそっとヒースの額に触れ、傷口を確かめた。
「……っ!」
 いきなり起き上がろうとしたヒースは痛みが走り、顔をしかめる。しかし、悲しそうなシュイの顔を見て、ヒースは安心させるよう、何でもないと笑みを浮かべた。
 大丈夫だ、シュイ。こんな傷、何でもない。
 ヒースの言いたいことが伝わったように、シュイが微かに瞳を揺らす。
「口を開いて」
 シュイの言葉に、ヒースはおとなしく従った。口の中に広がる独特の苦みの後、腹の底がじわりと温かくなった。それは雪蓮花という薬草だった。森に住む獣などはけがをしたとき、この薬草を食べて自らの傷を癒すという。村にいたとき、薬師をしていた老婆の手伝いでよくシュイがこの薬草を摘んでいた。効果はあるが、えぐみが強い独特の苦みに、タイシなどは顔を顰めて飲むのを嫌がったものだ。懐かしい味に、ヒースはほっと息を吐く。
「これで熱も下がると思う」
 ヒースは自分が夢を見ているのだと思った。それでも伝えなければという思いがヒースを駆り立てる。
「シュイ、石を生むんだ。このままだとお前の命が危ない。……シュイ?」
 そのときヒースはシュイがひどく辛そうな顔をしていることに気がついた。
 シュイどうした? どうしてそんな悲しそうな顔をしている?
 静謐な水の匂いがした。やはりこれは夢なのかとヒースは思う。
「……だめなんだ、ヒース。おれ、泣きたいのに泣けない。本当に泣こうと思っているんだ。あのときも、おれが泣いたらあの子たちはきっと死ぬことなんてなかった。だけどどうしてもだめなんだ。おれのせいでヒースがつらい目に遭っているのに、おれは石を生み出すことができない」
 胸が苦しくなるほど、苦悩に満ちたシュイの声が聞こえてくる。
 あの子たちとは誰のことを指すのか、ヒースにはわからなかった。だけどシュイの苦しみが、その瞳に宿る計り知れないほどの絶望が伝わってくる。これほどつらそうな顔をしているシュイを、ヒースはこれまで見たことがない。
 両手が使えないことを、ヒースはこれほど不自由だと感じたことはなかった。動くと身体に激しい痛みが走ったが、ヒースは顔をしかめ、苦痛をやり過ごす。
「……シュイ、聞くんだ。お前は何も悪くない。お前が自分を責めることはないんだ」
 子どものころ、よく泣いていたシュイを慰めたみたいに、その頬に両手で触れ、おでことおでこを合わせて、悲しんでいる幼なじみを慰めたかった。だけど現実と同じでヒースの手は自由にならず、夢の中でもうまくはできない。
「昔、傷ついたアズールを拾ったときのことを覚えているか? あのときお前は人間の手が触れたことで、アズールが親から見離されてしまうかもしれないと自分を責めた。だけどアズールは元気に育った。死にそうだったアズールをお前が助け、一生懸命世話をしてやったからだ。それと同じだよ、シュイ。お前は何ひとつ謝らなきゃいけないことなんてしていない」
 シュイはヒースを見ると、悲しそうに頭を振った。
「違うよ、ヒース。それは間違っている。――この者を吊している鎖を外してください。腕の鎖だけで十分でしょう。それから水と何か食べ物を、毛布を持ってきてください」
 シュイは顔を上げると、凛とした態度で兵士に告げた。それはヒースが知る幼なじみの姿ではなかった。
「はっ」
 シュイの命令を聞いた兵士が、ヒースの頭上で両腕を吊していた鎖を外す。崩れ落ちそうな身体を、とっさにシュイが支えた。そのぬくもりに、自分の身体を支えるやさしい手にヒースは戸惑った。
 シュイ……?
 シュイは困惑を滲ませるヒースを見ると、微かに微笑んだ。
「いまはこれが精一杯……。鎖を解いてあげられなくてごめん。だけどきっと助けるから。何としても、おれがヒースを助けるから」
 何かを決意したような、切実な光が滲むシュイの瞳を目にした瞬間、ヒースはひどく胸騒ぎを覚えた。
 これは本当に夢なのか? 待て、シュイ。お前何を考えている……? シュイ……!
 シュイの姿が遠ざかるように目が覚めると、ヒースは一人だった。熱が下がり、あれほど怠かった身体が楽になっている。
 ……?
 上体を起こそうとして、ヒースは身体に毛布がかけられていることに気がついた。頭上で吊されていた鎖も外されたままだ。たちまち覚醒するように、ヒースははっと跳ね起きた。
 あれは夢なんかじゃない……! シュイ……!
「誰か! 誰かきてくれ……っ!」
 ヒースは鉄格子を叩いた。騒ぎを聞きつけた牢番がやってくる。
「きさま、何のつもりだ!?」
「頼む! 石さまに会わせてくれ! 早くシュイに会わないと……!」
 あまり猶予は残されていないと告げたマーリーン公の言葉が蘇り、冷や汗が伝う。シュイがきてからどのくらい時間が経っただろう。自分はどれだけ意識を失っていた? 早く、早くシュイに会わなければ……!
 せっかくシュイと会えたのに、むざむざと機会を逃した自分が腹立たしかった。
「お前ごときがそう簡単に石さまに会えるはずがないだろう」
 牢番はヒースの必死なようすを嗤うと、その場を離れようとした。
「それだったらフレデリックを呼んでくれ! 頼む! お前たちの石さまに関わる大事な話だ! フレデリックもきっと聞きたいはずだ!」
 ヒースの必死な懇願に牢番は眉を顰めたが、内容が内容なのでそのまま放置もできなかったようだ。渋々ながら譲歩するようすを見せた。
「……一応フレデリックさまには伝えてやる。だが伝えるだけだ」
 牢番がいなくなった後、ヒースはじりじりした思いで待った。先ほどの牢番が本当にフレデリックに伝えてくれるとは限らない。もし伝わったとしても、フレデリックがどう出るか、ヒースは確信が持てずにいた。
 どれほど時間が経っただろう。誰かが牢に近づく音に、ヒースははっとなった。
「石さまのことで私に話があるとか」
「フレデリック……! お前だな! お前が俺のことを話したんだろう!」
 フレデリックは激昂するヒースを見ると、表情ひとつ変えずに答えた。
「そのことなら謝るつもりはない。私は私の職務を果たしたまでだ」
「きさま……っ! 罪もない人々を殺すのが、村を滅ぼすのがお前の職務だと言うのか!?」
 職務だと言われて、思わずかっとなった。そんなヒースを、フレデリックは冷たく見据えた。
「用とはそのことか。だとしたら私にはもう話すことはない」
「違う! 本当にシュイのことで大事な話があるんだ……!」
 その場を立ち去ろうとするフレデリックに、ヒースは必死に叫んだ。
「いにしえより国同士で交わされた密約があることは知っているか? それには期限があるのだと」
「密約?」
 ヒースの言葉に、そのままいこうとしていたフレデリックが足を止めた。その顔にはヒースの言葉を疑いながらも、何かを思案するような色が浮かんでいた。ヒースは目の前の男をはかるようにじっと見る。
 この男をどこまで信じていいのだろう。万が一フレデリックがマーリーン公とつながっていたら、それは自分だけじゃない、シュイにとっても命取りになりかねない。ヒースの額から冷や汗が落ちる。だけど、いまはこの男に懸けるしかない。
「そうだ。はじまりは……」
 ヒースはフレデリックの顔をまっすぐに見ながら、オースティンから聞いた話を慎重に告げる。ヒースの話が終わると、フレデリックは納得したような表情を浮かべた。
「周辺諸国がなぜいま騒がしいのかと思っていたが、そういうことか。お前はどこでその話を……、いやいまはそれはどうでもいい。メトゥス王やマーリーン公は……、彼らがそれを知らぬはずはないか」
 フレデリックがぶつぶつと呟きながら考え込むのを、ヒースはじっと眺める。ここからが肝心の話だ。いまからする話が、ヒースがこの場にフレデリックを呼んだ理由だ。ヒースは覚悟を決めたようにフレデリックを見る。
「新しい石さまについて、何を知っている?」
「新しい石さま?」
 フレデリックが訝しげに眉を顰めた。その表情は決して嘘をついているようには見えなかった。だけど自分はこの男のことをほとんど知らない。ヒースはごくりと唾を飲んだ。
「……新しい石さまを生む秘策があるそうだ。貴石を生み出さなくなった石さまの血で、生まれたばかりの赤ん坊を満たすのだそうだ。その中で相性のよいものだけが、石さまとして生き返るという。そしてシュイは長い間石を生んでいない」
「そんなことが……っ!」
 フレデリックの顔に驚愕が浮かんだ。その顔色は真っ青だ。だが、思い当たることでもあるのか、フレデリックはしばらく考えるそぶりを見せた。
「最近マーリーン公が密かに動いている気配があったのはそれか……」
 沈黙が流れる。ヒースはショックを受けたらしい男の顔に理解の色が浮かび、冷静に何かを計算するようすをじっと眺めていた。やがて、フレデリックが顔を上げた。ヒースを見るその目には、疑いが滲んでいる。
「その話が本当だとして、なぜ私に話した? お前にとって私は村を滅ぼした憎い仇ではないのか?」
「……許せないよ。お前のことはいまでも殺したいくらいだ」
 ヒースにとって、フレデリックは大切なものを奪った仇だ。いくら命令を受けたこととはいえ、この男がしたことは許せるものではない。できることならば自分の手でこの男を殺したい。だけどいまシュイのことで頼れる相手がいるとしたら、それはフレデリック以外考えられなかった。
「だけど、あんたがシュイを大切に思っているのは嘘ではないと思うから……」
 ヒースの言葉に、フレデリックがはっと息を呑んだ。
 王都から迎えがきたとき、シュイの前で見せたフレデリックの態度は、とても演技をしているようには思えなかった。いまでもフレデリックのことは憎い。そんな人間に大切な幼なじみを任せたくなんかない。だけど……。
 胸騒ぎがしていた。別れ際、シュイが見せた表情が気になって仕方がない。
 母さん、マナ、父さん、じいちゃん、村のみんな、ごめん……!
 ヒースは顔を上げると、まっすぐにフレデリックを見た。
「シュイに伝えてくれ。ばかなことは考えるなと。そしてこの先俺に何か遭ったとしても、それは決してシュイのせいなんかんじゃない。あの夜、止めることができなくてごめん。お前は何があっても生きるんだ。誰かの犠牲になんかなるな。お前は、お前らしく生きてほしいと……!」
「お前は……」
 覚悟を決めたヒースの言葉に何かを感じ取ったように、フレデリックは大きく目を瞠った。
 ――シュイ、泣いたらだめだ。
 幼い頃の自分たちの姿を思い出す。シュイが泣けなくなったのは、きっと自分のせいだ。ヒースがもう泣いてはいけないとシュイに言ったから。あの夜、何としても自分がシュイを止めるべきだったと、ヒースはずっと後悔している。もしこの先自分に何かあったとしても、シュイは泣けないかもしれない。だとしたらシュイはどうなる? 誰がシュイを守る?
 焦燥がヒースの胸をしめつける。
「あんたにしか頼めない。シュイは自らを犠牲にするつもりだ。フレデリック、シュイを守ってやってくれ!」
 フレデリックは身を翻すと、螺旋階段を駆け上がってゆく。
 頼む、どうか、シュイを守ってくれ……!
 ヒースは一人地下牢に取り残されたまま、祈るように心の中で叫び続けた。