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「いしものがたり」第32話

 やがて馬車が止まり、目的地に着いたことがわかった。
「着いたぞ」
 ロープで縛られたまま馬車から降りると、ヒースは周囲を見渡した。
 ここは……。
 そこはアウラ王都の西の果てにある大地、通称”神々の棲む森”と呼ばれる神聖な土地だ。その名前は古来人々に信じられてきた、龍神伝説からついたと言われている。断崖絶壁にあるその場所は、アウラ王都でも神官や王族などが特別な儀式を行うとき以外、滅多に人が足を踏み入れることはない。
 底が見えないほど深い崖の下を流れる川は、ヒースたちがいた村まで続いている。シュイと一緒に訪れたあの湖は、昔はこの川につながっていたとされるが、真偽のほどは定かではない。
「ここからは徒歩で移動する」
 馬車から降りると、そこからは獣道になる。ゆっくりとした歩みとはいえ、ずっと地下牢に幽閉されていたヒースの身体にはきつかった。体力は落ち、少し歩いただけで心臓は破裂しそうなほど苦しい。
「くそっ、まだ先があるのかよ」
 きつい経路に、若い兵士の一人が不満の声を漏らした。やがて視界が開けるように、目の前に広がる光景にヒースは息を呑んだ。
 切り立った断崖の上に、白亜の神殿がそびえ立つ。澄んだ水の匂いがした。こんな場所に誰がいったいどうやってつくったのだろう。そのあまりの見事さに、ヒースは声もなくただ呆然と見とれることしかできない。
 水の匂いは一歩踏み出すごとに強くなる。そのときヒースは神殿の中から出てくる数名の男たちの中に、ぐったりとしたようすのシュイを見つけた。
「シュイ……っ!」
 はっと目を瞠り、シュイの元へと駆け寄ろうとしたヒースは、その場で兵士に取り押さえられる。地面に身体を押しつけられながら、ヒースは必死にシュイの名を呼んだ。
「シュイ! お前たち、シュイに何をした!」
 マーリーン公たちの隣にいるシュイは、最後に会ったときよりも一回り小さくなった気がした。手には真新しい包帯が巻かれ、ヒースを見るその顔は血の気が引いたように憔悴しきっている。
「何をしたとはとんだ言いがかりですな。石さまがご自身を傷つけられたのですよ。何もなかったからよいものの、発見するのがあと一歩遅ければ危ないところでした。石さまが快適にお過ごしになれるよう我々が手を尽くしても、今度は護衛を唆して城から逃げ出そうとする始末。いやはや、まったく何をお考えになられているのか……」
「違う! お前たちがシュイにそこまでさせたんじゃないのか!?」
 それは彼らだけでない、自分がシュイをそこまで追い詰めた。
 ――何をしても、おれがきっとヒースを助けるから。
 あのとき、自分がシュイを止められていたら。ひどく思い詰めた目をしていたシュイを思い出し、ヒースは胸が張り裂けそうになった。フレデリックがシュイの護衛を外されたのも自分のせいだ。
「せっかくのチャンスを与えたのに、あなたにはがっかりしました。――大神官さま。この者がモンド村の生き残りです」
 ヒースが顔を上げると、そこにはマーリーン公とメトゥス王の横に、丈の長い白い衣装を身に纏った、顔色が悪い禿頭の老人がいた。
 大神官? この老人が……?
 老人が着ている衣装には金の糸で豪華な刺繍が縫い込まれている。その姿は神官というよりかはむしろ豪商の主人と言ったほうが信じられるほどで、とても神職についているとは思えない。大神官はマーリーン公の言葉にうなずくと、地面に押さえつけられているヒースを小さな目でぎょろりと見下ろした。
「お前のような者が龍神さまへの捧げ物にされることを光栄に思いなさい」
 大神官の物言いに、ヒースはかっとなった。そんなこと思えるわけがない……!
「ふざけるな! だったらお前がなるといい!」
 ヒースの言葉に大神官は不快そうに眉を顰めると、まるで穢れた者でも見るような目で一歩下がった。
 マーリーン公の合図で、兵士たちはヒースの腕を両側から引き上げるようにつかんだ。罪人のようにずるずると祭壇のある断崖へと引きずられる。マーリーン公は必死に抵抗するヒースを見ると、そっとささやいた。
「万が一この儀式が失敗したときは、……わかっていますね?」
 この儀式が失敗したとき――それはつまり同時にシュイの死を意味する。ヒースははっとなった。自分はどうなっても構わない。だけどこのままでは儀式は失敗に終わり、シュイが殺されてしまう。
「やめろ! その手を離せ!」
 ヒースは身をよじると、蒼白な顔で立ち竦むシュイを振り返った。
「シュイ! シュイ! 逃げろ!」
 やめろ! 頼むからシュイだけは助けてくれ……! シュイ……!
 断崖へと連れていかれたヒースは、兵士によって上半身の衣類を剥かれた。大神官は聖水が入った椀に束ねた月桂樹の葉を浸すと、ヒースの身体に振りかけた。
「龍神さま、この者の血と肉を大地に捧げましょう。どうか、我らアウラ王都に永遠なる祝福を」
 大地に跪くように押さえつけられたヒースは、無防備なうなじを大神官の剣の前に晒した。呪文を唱えながら、大神官が剣を振り上げる。そのときだ。ピューイという鋭い鳴き声と共に、大空を一羽の鷹が舞った。ヒースははっとなった。
 アズールだ……!
 まるでヒースの心の声が聞こえたように、アズールは上空でさっと身を翻すと、地上目がけて急降下した。まずはヒースを捕らえる兵士を襲い、慌てて助けに入ろうとした兵士たちをその鋭い爪と嘴で次々に襲った。
「わあぁあ……っ!」
「何だ……っ、鷹が……っ! ぎゃあああ……っ!」
 野生の鷹の急襲に兵士たちは剣を向けるが、アズールはそんな彼らを翻弄するようにその場をかき乱す。あたりは騒然となった。ヒースは顔を上げると、おろおろと立ち尽くす大神官の胸に頭突きをした。大神官が落とした剣を拾い、後ろ手に縛られていたロープを切る。逃げようとした大神官の服の後ろをつかむと、自分のほうにぐいっと引き寄せた。兵士たちが慌てて助けに向かうが、ヒースのほうが一歩早かった。大神官の首筋にぴたりと剣を突きつける。剣の先が首の薄皮を破り、血が滲んだ。
「無礼者! 何をする……っ!? ひぃー、い、痛い……っ! 痛いぞ……っ!」
 兵士たちがどうするべきか躊躇う一瞬の隙を狙って、ヒースはシュイに向かって叫んだ。
「シュイ、こい……っ!」
 ヒースの呼び声を合図に、シュイがたっと駆け出した。いまにも倒れそうな顔色で、しかしその瞳にはシュイの意志が表れるように、強い光を宿している。
「石さまをお守りしろ! 何としてもお止めするんだ!」
 碧眼の兵士の声に、兵士たちは我に返ったようにシュイの元へと向かう。ヒースは大神官を突き飛ばすと、シュイの元へと走った。
 ときが止まったように、すべてがゆっくりと見えた。足の裏に感じる大地の感触も、どくどくと激しく鳴る自分の鼓動も、すべてが遠いもののように感じられる。アシュリーと呼ばれた若い兵士がシュイを捕らえる。シュイは嫌がるように抵抗するが、もともと誰かと争うことに慣れてはいない。そのとき、アシュリーがすぐ近くまできていたヒースに気がついた。その瞳が驚いたように大きく見開かれる。アシュリーは慌てて剣を構えるが、シュイがアシュリーの手にしがみついた。ヒースはアシュリーの身体を容赦なく蹴り上げると、シュイの手をしっかりとつかんだ。
「いくぞ……っ!」
 ヒースの言葉に、シュイがはっきりとうなずく。
「追え! やつらを逃がすな!」
 アズールの奇襲により、一度は混乱に陥ったが、そこはさすが精鋭ぞろいのアウラ王都の兵たちだった。指揮を執る碧眼の兵士の命令にたちまち立て直すと、彼らのほうが圧倒的に数では有利だ。兵士たちと戦いながら、ヒースたちは次第に追い詰められてゆく。先ほどまでは麻痺して気づかなかったが、時間が経つうちに、長期に渡り捕らえられていたときのダメージが確実にヒースの体力を奪っていた。
 くそっ、きりがない……!
「あ……っ」
 けがをした部分に体重がかかり、鋭い痛みが走った。バランスを崩したヒースは膝をつき、剣を落としてしまう。その間にもアシュリーの剣が間近に迫っていた。
「死ね!」
 そのときだった。シュイはヒースが落とした剣を拾うと、慣れない仕草でアシュリーに切りつけた。
「うわああぁ……っ!」
「シュイ……!?」
 シュイが振るった剣は、ちょうどアシュリーの脇腹をかすったようだった。アシュリーは血に染まった腹部を押さえ、ひいひいと呻いている。その前で、剣を構えたシュイが呆然と立ち尽くしていた。
「シュイ……」
 ヒースはごくりと唾を飲むと、内心の緊張を悟らせないよう、幼なじみの少年の名前を呼んだ。
「シュイ、その剣をこっちに寄越せ」
 シュイはヒースの声が聞こえていないみたいに、何も反応しない。ショック状態だ。自らの手で人を傷つけてしまったことに衝撃を受けたように、剣をぎゅっと握りしめたままぶるぶると震えている。いけない、このままではシュイがけがをする。ヒースの中に焦りが生まれた。
 だが、焦燥にかられていたのはヒースだけではなかった。王都側の兵士たちも予想外の展開に迷うように、その場に凍りついたまま身動きできない。そのとき、皆の間から進み出る者があった。碧眼の兵士だ。
「……石さま、その剣をこちらに渡してください。石さまがおけがをされてしまいます。どうかお願いいたします」
 あたりは水を打ったようにしん、としていた。碧眼の兵士はシュイに話しかけながら、ゆっくりと歩み出た。碧眼の兵士の合図を受けて、仲間の兵士がはっとなったようにけがしたアシュリーを連れていく。
「さあ、石さま……」
 男が差し出した手にシュイが反射的に剣を向けると、碧眼の兵士はそれ以上進めずぴたりと立ち止まった。動いたときに傷口が開いたのだろう、シュイの左の手首に巻かれた包帯が解け、血が滲んでいた。
 緊張に冷や汗を滲ませながら、ヒースはそっと深呼吸した。
「シュイ……」
 シュイのようすを慎重に確かめながら、彼のほうへと手を伸ばす。
「あの兵士は大丈夫だ。彼の仲間が助けてくれる。俺もお前のおかげで助かった。だからもうその手を離していい」
 ヒースはシュイの手に触れた。シュイの手は固まったように、剣を握りしめて離さない。
「そうだ、ゆっくり……」
 きつく強ばった指を解くと、シュイはがっくりと力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。とっさにその身体を支えながら、ヒースはほっと息を吐いた。周囲にも安堵したような空気が流れる。そのときだ。メトゥス王がはっとなったように叫んだ。
「何をしておる、その者を捕らえよ!」
 兵士が再び剣を構える。ヒースはシュイを腕に抱きながら、じりじりと距離を狭める兵士たちに剣を向ける。背後には切り立った崖がヒースたちの行く手を阻み、前方には兵士たちが間近に迫っている。ヒースはシュイを庇うように立った。
 もうだめか……!
 ヒースがそう思ったときだ。突然、シュイはヒースの首に腕を回すと、ぎゅっと抱きついた。
「おれがいなくなったら、ヒースは自由に生きて」
「シュイ?」
 ヒースがぎょっとなったのも束の間、シュイは子どものころと同じ顔で笑った。シュイの瞳は膜を張って潤み、弾けるように滴が零れ落ちる。それは清らかで神聖とも思える光景だった。
 誰も言葉を発する者はいなかった。誰もが息を呑み、心を奪われたように、目の前の出来事に見入っている。冬の空を映し込んだシュイ瞳が、日の光を透かしてきらきらときらめいた。
「おお……っ、貴石だ! あれは余の物だ!」
 シュイの瞳から零れる涙を見て、メトゥス王が周囲の人間を押しのけるように前へと進み出る。
「ヒース、大好き……!」
 シュイは微笑むと、ぱっと身を翻した。
「シュイー……っ!」
 その身体が空に吸い込まれるように消えた瞬間、ヒースは剣を落とすと、勢いをつけてシュイの後を追うように断崖へと飛んだ。