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「いしものがたり」第20話

 そのとき、誰かの手が躊躇うようにヒースの肩に触れた。
「……無駄だよ。その子はもう助からない。第一、医者にかかる金なんてもの俺たち庶民にはない。貴族さまとは違うんだ」
 自分が聞いたことが信じられないように、ヒースは声をかけてきた男を凝視する。いったい何を言っている?
 そのとき、馬車から立派な身なりをした貴族の男が出てきた。男はヒースの腕の中でぐったりとしている子どもには目もくれず、おろおろしたようすの業者と自分の馬車を見て、不満の声を上げた。
「何をもたもたしておる! 早くその薄汚い小僧を馬車の前からどけないか! おかげでわしの馬車が汚れてしまったではないか! まったくとんだ災難だ!」
「――いま何て言った……?」
 男の言葉に、ヒースはぴたりと動きを止めた。
「あんたの乗っている馬車がこの子どもをはねたんだろ? 災難とはどういう意味だ? あんたが心配するのは自分の馬車のことなのか?」
 ヒースの気迫に男はたじろぐが、すぐに気を取り直したように高圧的な態度に戻った。
「子どもといったってたかだが庶民、それも浮浪児じゃないか! そんなもの、わしの馬車となど比べるまでもない! いいから、早くその薄汚い子どもをどけよ!」
 人の心があるとは思えない男の言葉に、ヒースが立ち上がろうとしたそのときだ。
「帰れ!」
 誰かが投げた石が貴族の馬車に当たった。
「いま石を投げたのは誰だ! 姿を見せよ!」
 貴族の男は憤慨したように顔を赤くするが、一人、また一人と地面に落ちていた石を拾い、男へと投げつける。人々の目には男を憎むような暗い光が浮かんでいた。
「帰れ! ここは貴族さまがくるようなところじゃないぞ! 俺たちの町だ!」
「帰れ! 二度とくるな!」
 石を投げながら、じりじりと迫りくる人々に恐れをなしたように、貴族の男は真っ青な顔で後退りした。
「止めよ! 貴様たち、わしにこんなことをしていいと思ってるのか!」
 そのときヒースは、腕の中にいる子どもが何かを伝えようとしているのに気がついた。
「何だ? 何が言いたい?」
 震える手で必死に渡そうとしているものを受け取ると、子どもはほっとした表情を浮かべた。ヒースを見てうれしそうに笑う。
「あり……がと……」
 子どもの瞳から少しずつ光が失われていくさまを、ヒースは愕然とした思いで眺める。ヒースの手から先ほど子どもが渡したものがぽろりと転がり落ちた。
「だめだ! まだ死ぬな! 死んだらだめだ!」
 子どもの身体を抱きしめ、必死に呼びかけるヒースを、人々は気の毒そうな顔で眺める。だが、こんなことは日常茶飯なのだろう、一人、また一人とその場から離れてゆく。そのときヒースの手から転がり落ちたものを、誰かが拾い上げた。拾った男は小さなケースの蓋を開けると、くんと匂いを嗅いだ。
「何だ? 軟膏?」
 それは以前ヒースが町でこの子と会ったときに、ほんのわずかな金と共に渡したハーブ入りの軟膏だった。あかぎれだらけの子どもの手が痛そうで、かわいそうだったから。正直、深い意味なんてものはなかった。中途半端な同情はどちらのためにもならないとヒースに忠告した女の言うように、自分の気持ちが休まるように気まぐれに助けただけだ。それなのに、そんなヒースのささやかな好意を、子どもはずっと大事に持っていたのだろう。
 中身がほとんど減っていない軟膏を目にしたとたん、ヒースの胸を深い後悔と衝撃が襲った。
「使わなかったのか……!」
 自分はこの子に親がいなく一人なことも、お腹を空かせていることにも気づいていた。それなのになぜという思いがヒースを責め立てる。それは自分の手に余ったからだ。見知らぬ子どもに関わる余裕はないと、シュイを助けられなくなるからと心のどこかで自分に言い訳をして、ヒースはあの子どもを見捨てた。それはその日食べるものにも困り、腹を空かせている子どもを見て見ぬふりする人々と変わらない。
 ヒースが数枚の硬貨とハーブ入りの軟膏を渡したときの、子どもの驚いたような顔が忘れられない。
 ――どうして……! どうしてもっと早く何とかしなかったのだろう……!
 血の気の失せた子どもの頬に滴が落ちる。それが自分の流した涙だと、ヒースは気づかなかった。ヒースは唇を噛みしめると、少年の瞼をそっと閉じてやった。男から取り戻したケースから軟膏をすくい取り、あかぎれだらけの少年の手に塗ってやる。それから、小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「ごめん……、何もしてやれなくてごめん……!」
 後悔してももはや手遅れだった。この少年が生き返ることは二度とない。 
 自分はいつも後一歩のところで間に合わない……!
 どれくらいそうしていただろう。その場にうなだれるヒースの背後に、誰かが立つ気配がした。
「わからないな。たかだか貧しいガキが一人亡くなっただけのことだろう。いったい何をそんなに悲しむ。よくあることじゃないか」
 その声にはっとして振り返ると、そこにはいまこの場にいるはずのない人物が立っていた。
「お前……っ!」
 とっさにナイフに手を伸ばしたヒースに、アルドは肩を竦めた。
「おいおい、そんな物騒なものしまってくれよ。ただの世間話だろう」
 いつもならただの軽口と流せたかもしれないが、いまは無理だった。この男の正体が何者かと疑ったこともあったが、それすらもどうでもいい。いまはただこの子どもを安らかな場所で眠らせてやりたいという思いしかなかった。
「お前には関係ない」
 ヒースは取り出したナイフをしまうと、まだ温もりのある子どもの身体を抱き上げた。そのまま男の存在を無視していこうとするヒースの後を、アルドがついてくる。
「だからお前は甘ちゃんだっていうんだよ。そんなガキの一人や二人、亡くなったからって何だっていうんだ。お前は石さまだけが大事なんだろう? だからこの子のことも見捨てたんだ。本当は他人のことなんてどうでもいいくせに、いまさらいい人ぶるなよ。そんなのはただの自己満足だ。見ていてイライラするんだよ」
「お前……っ!」
 肩に乗せられたアルドの手を、ヒースは力任せに振り払った。そんなヒースを、アルドが平然とした顔で見返す。
「なんだ、図星か?」
 にやりと笑った顔に、憎しみを覚えた。だが次の瞬間ヒースは顔を歪ませると、あの人を食ったような笑みを浮かべる男の顔を見た。
「そうだよ、お前の言うとおりだ……!」
 本当はわかっていた。腹が立つのはアルドの言う通りだからだ。図星を指されて、アルドに八つ当たりをしたいだけだ。だけどやり切れなさが、後悔がヒースの胸を襲う。
「だけどそういうお前は何さまのつもりだ? 不快に思うなら見なければいい。どうして俺に構う? いったい何が目的だ? お前には関係ないことだろう!」
 ヒースが言い放ったとたん、その場の空気がすう……っと凍りついた気がした。
「……ふうん、関係ない。確かにね」
 アルドがにっこりと笑う。だがその目は少しも笑っていなかった。男が身に纏う殺気に、ヒースは気圧されたように息を呑んだ。と同時に、ヒースはわからなかった。自分が言った言葉の何が、アルドをそれほどまでに刺激したのか。
「アルド……?」
 次の瞬間、アルドは殺気をとくと、ヒースを見て微笑んだ。
「なあ、考えたことはないか? この国の石はここ何年も貴石を生んでいない。役立たずの石がいったいいつまで大事にされるかな」
 ヒースははっとなると、先ほど感じた恐怖も忘れ、アルドに詰め寄った。
「アルド! それはどういう意味だ? お前は何を知っている?」
「別に何も。ただ一般論を言ったまでだよ」
 ただの一般論だと言われても、信じられるわけがなかった。ヒースの必死なようすにも表情ひとつ動かさず、アルドが背を向ける。
「待て……っ!」
 その瞬間、ヒースは完全に無防備だった。いつも浮かべている薄笑いを消したアルドの冷たい視線が視界に入り、ヒースがあっ、と気づいたときには遅かった。みぞおちに入ったアルドのこぶしに、ヒースはその場に崩れ落ちる。
 薄れゆく意識を必死に保とうとするヒースを、アルドが無表情に見下ろしていた。
「アル、ド……!」
 脂汗が滲んでいた。意識を保っているのが精一杯だ。アルドはそのままいこうとして、思い直したように地面に片膝をつくと、ヒースの上体を引き起こした。
「――近いうちこの国で大きな出来事が起こるよ。メトゥス王は強欲だ。役立たずの石をそのまま放ってはおかない」
 ヒースの顔をのぞき込むアルドの瞳は楽しそうに輝いている。そのとき、アルドの目の奥で何かの生き物が動くようにちらりと閃いたように思えた。
 ――いま何か……?
 ヒースは自分が目にしたものが信じられず、瞳を瞬かせる。アルドはそんなヒースのようすを楽しむように、耳元でささやいた。
「お前の大事な石さまがどうなろうと俺には関係ない。それどころかあんな小僧、これまでもずっと邪魔なだけだった」
 まるでシュイのことを知っているような口振りに、ヒースの頭は混乱する。
 アルドは緑色の目を細めると、突き放すようにつかんでいた手を離した。
「時間はもうあまりない。それまでせいぜいがんばるんだな」
 時間はない? それはどういう意味だ? お前は何を知っている? シュイをどうするつもりだ?
 ヒースはアルドに向かって手を伸ばした。だがその手は空を切ったように届かない。薄れゆく意識の中で、アルドがヒースに向かって何かを告げる。
 ――……せ。
 聞こえない。いまお前は何を言ったんだ?
 アルドがヒースを見て、ふっと微笑んだ。やがて、ヒースの意識は完全にフェードアウトした。