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ドリーム・トラベラー第十夜 「明晰夢の新たなるステージ」

ウコンさん

 鏡の向こうにウコンさんが現れるようになってから、不安で憂鬱な日々を過ごしていた。
 わたしは夢の中のわたしと同化し、これまでの経緯を瞬時に理解した。
 だが、ウコンさんなどという知り合いはいないので、この人物がわたしだとは当然思えなかった。では、わたしは他人の夢の中にいるのだろうか?
 これまでの明晰夢とは異なる、新たな感覚だった。他人の夢の中に転移する、体外離脱の変則バージョンかも知れないとさえ思えた。
 ベッドの上には、愛犬らしき小型犬が蹲っていた。眠っているわけではなく、開いた目はぼんやりと宙を見つめていた。飼い主であるこの人物と同様、鬱な状態らしい。

 ウコンとはどのような人物なのか。好奇心と恐れを抱きながら、わたしは鏡の前に立った。その人物は、鏡を通してわたしの背後に現れるらしい。
 鏡の中に現れた姿を目にして、凄まじい衝撃を受け、見なければ良かったと後悔した。
 泥で汚れたような茶色いニット帽を被り、目鼻も口もなく、イモムシか山芋に似た、根っこのような化け物が鏡の前に立っていた。肌には一定間隔で輪状の節が付いており、泥のような茶色の毛羽立ったコートを羽織っていた。
 つまり、わたし自身がその怪物だったのだ。それはまさに、健康食品として有名な生姜科の多年草植物の根にそっくりだった。
 わたしが同化したこの人物の記憶によれば、昨日までは鏡に映った時だけわたしの背後に怪物が現れていたらしい。従って、この人物自身が怪物となったのは、わたしが同化してからのことだ。
 それにしても、こいつがウコンなのか……。わたしは顔を撫で回した。目が無いのに、どうして見えるのか? 疑問を抱きはしたものの、実際見えるのだからまあいいかと思った。どうせ他人の夢の中だ。本当に他人かどうかも判らないが。

 夢の中の人物の記憶によれば、ウコンはよく知られた存在らしい。
 姓は小石河原という。
 わたしはニット帽を目深に被り、コートの襟を立てて夜の街を徘徊した。というのも、わたしと同化したウコンさんを切り離すには、誰かに乗り移らせる必要があるからだ。乗り移らせたい対象を見つけて鏡を持たせ、その背後にわたしが映り込めばいいらしい。わたしから抜け出したウコンさんは他人の体へ移行するのだ。ある種の儀式ともいえる。
 いつの間にかわたしは巨大な地下道の中に迷い込んでいた。
 やがて、首に包帯を巻いた初老の紳士が前方から近づいてきた。
 ようやく現れた人物に、わたしは手鏡を渡すのではなく、地下道から外へ出る道を訊ねた。
 親切そうな人物に見えた。ところが、話しかけた紳士は訝しげに顔をしかめた。
「あなた、ウコンさんじゃありませんか」
 吐き捨てるようにそう言って、紳士は立ち去った。
 彼が言葉を発した途端、彼の服がみるみる黒ずみ、心なしか身長が伸びている気がした。恐ろしくて何も言い返せなかった。

 背後に奇妙な気配を感じて振り返った。
 壁から三角形の巨大な庇めいた物体がせり出し、その下に、鏡で見たわたしと同じ姿のウコンさんが立っていた。
 目鼻のないのっぺりした顔から表情を読みとることは出来ない。
「あの、すみません」
 話しかけたが、ウコンさんには何の反応も見られなかった。
「この地下道から出たいのですが……」 
 そう訊ねると、ウコンさんの体がニュルニュルと縦に伸びて、触手になった指がわたしの耳の中へ入ってきた。
 耳鳴りとともに、過去のシーンに切り替わった。

            * * *

 大の仲良しだった小石河原君が鉄棒の事故で亡くなった。鉄棒は、彼の自宅に設置されたものだ。
 彼が鉄棒から落ちたその瞬間、わたしは彼の目の前にいた
「これ出来る?」
 小石河原君は体操選手ばりの速度で大回転を始め、左右の手を入れ替える際にバランスを崩し、頭から地面に落下した。
 ゴキン、というとてつもなく不吉な音がして、落下の仕方もあまりに激しかったので、わたしは恐怖に包まれていた。その時は、彼が生きていることさえ奇跡に思えた。
 小石河原君は首が曲がったおかしな体勢で倒れたままだった。
「大丈夫?」
 駆け寄って声をかけると、彼は「たぶん」と応えた。頭に大きな瘤が出来ていたが、出血もなく、他にも目立った外傷はなかった。
「ほんとに大丈夫?」
 尚も心配する私に、彼は「大丈夫だから帰ってくれ」と言った。
「でも、救急車――」
「いいから帰ってよ!」
 彼が怒鳴ったのを初めて聞いた。本気でわたしを追い払いたがっていた。自分の不注意で怪我したことが両親にバレるのを恐れているのが、わたしには解った。
 わたしは渋々帰宅した。
 その後、度々彼を訪ねたのだが、母親に面会を拒絶された。不吉なものを追い払うかのような態度だった。
 彼の怪我は私のせいであり、怪我している彼を置き去りにして逃げたと誤解しているようだった。彼がそう言ったのか、それとも両親が勝手に決めつけているのか判らなかった。
 彼の父親は教師で、私の絵の才能と創作力を高く買っていた。私にガリ版の使い方を教え、描いたマンガを学校で印刷してくれた。
 小石河原君に会えないまま時が過ぎ、一家は転居してしまった。彼が亡くなったことは、半年後に担任から聞かされた。鉄棒の事故で首の骨を折った後遺症だったが、首の骨が折れていたことも、闘病生活を送っていたことも、後になって知ったことだ。
 あの時すぐに救急車を呼んでいれば、もしかしたら後遺症を背負うことはなかったのかも知れない。彼の拒絶を受け入れ、帰宅してしまったことが全ての過ちだった。結局、怖くなってその場から逃げたのと何ら変わりない。

             * * *

 「君なのか……小石河原君なのか?」
 わたしは壁から現れたウコンさんに向かって訊ねた。
 質問に反応することもなく、ウコンさんは再び三角形の巨大な庇めいた物体となり、壁の中に戻っていった……。 

 唐突に目が覚めた。
 わたしはショックを受け、呆然としていた。
 過去がそのまま再現された夢を見たのは初めてではないが、今回の夢は、わたしが知り得なかった〝その後〟が含まれていた。
 現実世界でわたしが知っているのは、親友だった小石河原君の事故と、その後、母親から「二度とうちの子に近付くな」と鬼のような形相で追い返され、転校していったところまでだ。首の骨が折れていたことや、その後、後遺症に苦しみながら死んでしまったことなど誰からも聞いたことがない。    
 当時の級友とは何十年も音信をとっておらず、今となってはそれを調べる手段もない。
 あの日から四十年以上経った今になって、どうして小石河原君が現れたのか解らない。
 それよりも、どうして小石河原君がウコンさんなのか?
 ウコンさんとはいったい何者なのか?


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