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ドリーム・トラベラー 番外編1「近距離の体外離脱」

 体外離脱(幽体離脱)を最も経験したのは三十代半ばから四十代半ばまでの十年間だった。十一年連れ添った愛犬を三十代半ばで亡くし、悲嘆に暮れて過ごした十年間、わたしは頻繁に肉体を離れた。愛犬が現実世界とのくびきとなっていたのか、愛犬と再会したい思いから深層心理が霊界へ向かおうとしたのかは解らない。
 離脱は必ず、眠りに落ちる寸前に起きる。全ての音をかき消すほど大きな耳鳴りに続いて、乱気流に突入した飛行機の如く激しく恐ろしい振動。何か大きな物体の落下音と、こもった爆発音が同時に二発。死を覚悟せざるを得ないほどの異常な感覚に襲われる。体外離脱と臨死体験が同一の現象であることのあかしであろう。
 当然、びっくりして跳ね起きる。ところが、跳ね起きたのは肉体を置き去りにしたわたしの心=魂=霊体=思念体=精神体である。
 離脱はいつも短い時間だった。眠りに落ちようとする刹那、重力が消えると同時に部屋が明るくなる。太陽や街灯の光とは違い、大雨が降る中、ときおり光る雷光が室内を照らした色合いに近い。
 光が弱まると、すぐに異様なものが見えてくる。天井や壁に張り付いた名状しがたい物体と生物。襲ってくる危険性は感じないものの、不気味さは耐えがたいものがある。
 そんなものは見ていたくないので、目を覚まそうとするが、そもそも眠っている状態ではない。わたしの意思は肉体に届かず、指の一本も動かすことは出来ない。肉体との接続を断ち切られたかのようだ。
 その時、自分が宙に浮いていることを初めて知る。といってもほんの数センチだ。肉体の上に乗っかっている程度の高さである。右に左に動こうとしても、肉体に跳ね返され、逆に、またほんの少し上昇する。今度は三十センチ程度の高さだ。
 そこまで離れると、さらに色々なものが見えてくる。言葉で表すのは不可能な存在であることを前提に、あえて描写を試みるとすれば、〝人間の形状を失った、崩れた霊体〟としか言いようがない。それを今、思い出そうとするだけで怖気が走る。書くのをやめたくなるほどの恐怖が込み上げてくる。
崩れた霊体〟は、空中をヘビのようにゆっくりとのたくり、徐々に近づいてくる。
 そんなものを見てしまうと、すぐにでも肉体に戻らなければと躍起になり、肉体に向けて必死に下降を試みる。
 じたばたしていると、玄関の方から輪郭のぼやけた黒い人影が現れ、向かって来る。それが、〝ダーク・ピープル〟である。これまで書いてきた明晰夢の中に度々現れる、目だけくっきりした黒い存在だ。
 往々にして体外離脱体験の序盤に現れるので、それ以上先へ進むことはできなくなる。家の外に出て、旅をするなど至難のわざだ。
ダーク・ピープル〟の目的はすぐに解った。わたしが体外離脱することで、留守になった肉体を奪おうとしているのだ。わたしが戻るより前に肉体に飛び込まれたら、わたしはどうなってしまうのか。
 わたしは毎回、奴より先に肉体に戻ることが出来たが、慌てて戻った直後は体がまったく動かない。単に精神体と肉体が重なっただけで、接続されていない状態だった。意識ははっきりしているのに体が動かない。
 やがて、およそ三十分ほどかけて、ようやく腕が痺れを感じてくる。それから徐々に動かせるようになるまで更に十分ほどかかる。それから足だ。やはり痺れている。全身が麻痺状態から離脱するまでには、毎回一時間はかかった。

 後にロバート・モンローの三冊の本を読み、「体外離脱のし始めに現れる恐怖を克服しないと、更なる体外への旅は始まらない」ことを知った。
 わたしにはあの恐怖を克服する度胸がなかった。当時、妻とは寝室を分けていたのだが、あまりに怖かったので、妻のベッドの下に布団を敷いて夜を明かすこともあった。
 同じ時期、妻も毎晩のように悪夢にうなされていた。絶叫しながら目を覚ますことが多かった。ベッドの上に、説明不可能な恐ろしい生物が浮かんでいたらしい。つまり、わたしと同じ体験だ。妻は体外離脱の自覚がなかったのだ。
 体外離脱は、感染症のごとく近くの人間に影響を与えるのだろう。悪夢症もその一種だ。

 それからも毎晩のように近距離体外離脱を繰り返し、肉体との接続を取り戻すのにかかる時間が伸びていった。
 こんなことを繰り返していてはぽっくり死んでしまうかも知れない。恐れを感じたわたしは、毎日十キロのランニングを始めた。フィジカルを意識することで、精神と肉体を強固に結びつけようとした。この試みはランニングを始めて五年ほど経ってようやく功を奏し、体外離脱はしなくなった。その代わりに始まったのが明晰夢である。


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