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ドリーム・トラベラー 第七夜

 これは見た夢の忠実な記録であり、夢の中の体験をノンフィクションと仮定できるとしたら、本作は小説を装ったノンフィクションといえるかも知れない。

夢の中だけに現れる風景の記憶

 見知らぬ田舎町を走っていた。
 異世界にいるもう一人の自分の体に転送されたような感覚だった。
 わたしはすぐに、明晰夢を認識した。
 夢の中のわたしは、現実と同様の速度で走っていた。現実世界のわたしはシリアスランナーで、ほぼ毎日十キロ走っている。だから着地感覚に違和感を覚え、夢の世界にいることを悟ったのだ。毎日のように走っていなければ気付かなかったかも知れない。
 周囲の景色がおかしい。わたしが毎日走っているコースではなく、十年前にも夢の中で訪れた場所だった。夢の世界にいるわたしだけが思い出せる、制限された記憶だった。
 この道を真っ直ぐ進むと、数キロ先に坂があり、丘の向こうに古い民家が一軒。そこに老婆が住んでいる。赤の他人だが、優しく見守ってくれる存在だった気がする。だが、それ以上は思い出せない。
 空には雨雲がびっしり張り詰め、ゆっくりと、反時計回りに回転している。朝だというのに夕暮れのような暗さだった。
 曇った空を眺めていたら、雨雲が徐々に降下してきた。すると、足が重くなり、息が苦しくなった。突然スタミナが切れたかのようだった。
 とても走っているとはいえない速度にまで低下していたので、背後から来た親子に追い抜かれた。黄色の長靴を履いた幼い女の子が水色の傘を振り回し、蛇行しながら歩いていた。
「坂だから気をつけて」
 母親の忠告を無視し、女の子は坂道を小走りに上っていった。
 急峻な細い坂道だった。両側を土砂崩れ防止のコンクリートで舗装された擁壁に挟まれた、幅の狭い坂道だった。
 二人を追うように急いだが、足が前に進まない。坂道はどんどん狭くなり、一人がやっと通れるほど窮屈だった。上るに従って角度も急になった。
 二人の姿がついに見えなくなったその時、左の斜面からタン、タン、タン、と何かが跳ねながら歩く足音が反響した。驚いて左の斜面に目を走らせたが姿は見えない。真横に何かがいる気配だけを感じる。女の子だろうか? それはあり得ない。擁壁の斜面は垂直に近く、人が歩ける角度ではないのだ。といっても、ここは現実ではない。黄色の長靴を履いた幼い女の子が垂直の壁を駆け回っているのかも知れない。
 想像したら恐ろしくなった。逃げなければ! 
 引き返そうとしたが、足がまったく動かなくなった。何かに固定されたように、上半身しか動かせなくなっていた。
 親子に助けを求めようとしたが、坂を上りきったのか、姿は見えなかった。
 声が出てこない。それでも必死に絞り出した。
 ほぎゃああああああああああ! 
 老人の呻き声のような低くくぐもった叫びが零れ出た。殆どが息だった。親子には聞こえるはずもない。
 左側の闇にいる姿の見えない何かが狙いを定め、今にも飛びかかって来そうな気配がした。
 タン――。
 一つの足音が左右の擁壁を反響した。プレートエコーの反響は、右側上方から発生した音源に違いなかった。ゴム底のシューズが壁を跳ねた音だ。ヒールや革靴の硬いソールではなく、裸足でもサンダルでもなく、動物の肉球でもない。
 こんなにも怖ろしいのはなぜなのか。今さら失うものなどない。よほどのことがない限り、怖いものなどない筈なのに……。夢の中のわたしは、現実と変わらぬ明晰さでそう考えた。
 今にも雨が降りそうな暗い空と細い坂道、左右の高い壁。それだけでも不安な要素なのに、垂直に近い壁には重力を無視した見えない何かがいる。その気配が怖いのだ。というのも、先ほどから黒いビニールのようなツルツルした未知の生物の姿が頭の中を占めているからだ。そんなものがいる筈はないのだが、頭の中で、より鮮明に実体化しつつある。
 考えてはいけないと思っても、イメージはさらに拡大した。
 ダーク・ピープル――。奴が来たのだ。わたしは目だけをゆっくり右に向けた。
 いた。
 わたしをつけ狙う黒い人物。輪郭がぼやけた体の中で、あの目が、悪意に満ちた目だけがくっきりと浮かび上がっていた。ダーク・ピープルが、コンクリートの崖の上方で四つん這いになっていた。そして、どんな動物にも昆虫にも見られない奇怪極まりない四つ足走行で駆け下りてきた。
 足元に、幼女が履いていた黄色い長靴が落ちていた。
 それを見てしまったわたしは全力を振り絞り、叫びながら坂道を駆け下りた。

 現実の体で目を覚ました時、わたしはまだ叫んでいる途中だった。喉がからからに乾いていた。

 今回のダーク・ピープルは一体だけだったが、行動が大胆になっていた。
 このまま明晰夢を見続けると、奴に襲われるのは間違いない。するとどうなるのか。奴の目的が全く解らないが、震え戦かずにいられないほどの強烈な悪意を前に、わたしに出来ることは何とかして目を覚まし、現実の体に逃げ込むことだけなのか。


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