見出し画像

ドリーム・トラベラー 第六夜

 これは見た夢の忠実な記録であり、夢の中の体験をノンフィクションと仮定できるとしたら、本作は小説を装ったノンフィクションといえるかも知れない。

アストラル・トリップ

 目線の少し上に大きなスクリーンが広がっていた。映画館のスクリーンよりは小さいが、画面との距離が近いので視界いっぱいに広がっている。
 部屋全体も映画館並みに暗い。
 スクリーンの周囲はコックピットのような計器類が並んでいる。それらは様々な色で点滅しているが、光量は弱く、ぼんやりしている。

 わたしは読書中に寝落ちし、ここに送られてきた。
 眠気を感じた段階で耳鳴りが始まり、爆発音とともに意識が額から前に乗り出すのを感じた。すると、このスクリーンの部屋にいたのだ。
 明らかに、意識だけの存在になった実感があった。肉体的な感覚がなくなり、背負っていた重荷がとれたように、とても気分が良かった。
 突如、何らかの使命を感じると、座っていた椅子が振動し始めた。再び耳鳴りが始まった。今度は凄まじい音量だった。あまりにうるさいので、もうやめてくれ! と叫びそうになった。
 スクリーンに嵐の空のような、渦巻く雨雲が映し出された。雲はゆっくりと、反時計回りに回転していた。雨雲のトンネルは、暗灰色の空の奥に向かって続いていた。雲は圧倒的な虚無感をまといながらゆっくりと回転していた。
 わたしは激しく振動し、椅子から引き剥がされた。回転する雨雲のトンネルに引き込まれ、空の奥へ奥へと飛ばされていった。
 雨雲のトンネルに入ると、かつて経験したことのない恐怖と爽快感を同時に味わった。その後、あらゆる記憶が猛烈な勢いで過去に流されて行くような喪失感を覚えた。

 雨雲のトンネルを抜けて、着地したのは橋の上だった。橋の両側には子供用の遊具が並んでおり、すぐに児童公園だと解った。橋は児童公園の上に架かっているようだ。
 空はよく晴れて、一面、光に満ちていた。
 〝自分は死んだのかも知れない〟と、不吉な考えが頭をよぎった。今いる場所は夢の中ではなく、違う場所だという確信が芽生えていたからだ。
 左側の公園内には幼稚園らしき建物がある。わたしが通った幼稚園によく似ていた。公園は幼稚園の庭を兼ねているようで、お揃いの体操着を着た子供たちが滑り台、ブランコ、鉄棒で遊んでいた。幼稚園の庭が一般に開放された公園になっている点もわたしが通った幼稚園と同じである。当時はおおらかな時代だったのだ。
 長閑で微笑ましい光景だった。出来ることなら近くで、いつまでも眺めていたいと思ったその時、子供たちの間に不審な人物がぽつりぽつりと現れ始めた。三人、四人と増え、あっという間に七、八人になった。彼らにだけ光が当たっておらず、夕闇の中に立つ人影のようだった。しかし、その暗闇に包まれた顔の中で、吊り上がった目だけがくっきりと浮かび上がり、わたしを凝視していた。七、八人全員の視線がわたしを捉えていた。禍々しく、毒々しく、悪意のこもった、強烈な感情がわたしの頭に流れ込み、とてつもない恐怖を感じた。
 ――ダーク・ピープル。ここにはいない筈なのに……
 何者かが頭の中に語りかけてきた。
 ダーク・ピープルだと? あいつらは絶対にやばい、逃げなければ! 本能が緊急警報を発した。
 わたしは全力で走った。大地を踏みしめる感覚はなく、滑るように進んだ。
 橋の上にあるのは、一人がやっと通れるほどの細い一本道だ。前方は霧に覆われており、道の先がどこまで続いているのか解らない。背後を振り返ると、遠くに黒い人影が見える。ダーク・ピープルに違いない。距離はあるが、速度を緩めたら追いつかれてしまいそうだった。
 さらに進むと、なだらかな上り坂になり、橋はどんどん高くなり、両端が急峻な崖に変わった。霧に包まれていて、橋と崖の境目は見えなかった。霧ではなく雲の中かも知れなかった。
 いきなり、崖の先端に達していた。そこからは崖下に降りるしかないが、何の装備もなく垂直に切り立った崖を降りるのは自殺行為だった。
「こっちへ来て!」
 若い女の声が霧の中から聞こえた。
 正面の霧が晴れ、崖より少し低い位置に細長い塔が立っていた。中世ヨーロッパの、特にベルクフリートと呼ばれる細長い円柱型の煉瓦造りで、ドイツに多く見られるタイプだ。
「こっちへ! 早く!」
 その最上階の窓から若い女性が身を乗り出し、こちらへ向かって手を差し伸べてきた。
 絶世の美女というほどではないが、人間離れした美しい顔で、まとっているドレスは虹色に輝いていた。わたしは一瞬で心を奪われたが、それどころではなかった。
 背後から、奴らが、ダーク・ピープルたちが迫ってきていたのだ。
 塔と崖の距離はおよそ二メートル離れていた。
 相変わらず夢だという確信は持てなかったが、かといって現実ではない確信もあった。万一、落ちても死ぬことはないだろう。自分の感覚を信じて、塔に向かってダイブした。

 体がふわりと浮かんだ。女の手が、わたしの両手をつかんだ。わたしははためく布のように軽々と、女に抱きかかえられた。女の体に包み込まれた時の安堵感、幸福感、絶頂感は、これまでに体験したことのない精神的快楽をわたしの精神にもたらした。セックスでも自慰でも得られない究極の快楽だった。
 そのまま抱き合っていたかったが、塔が激しく振動し始めた。マグニチュード8を超える地震に匹敵する揺れだった。激しい耳鳴り、爆発音と共に、塔は下層から倒壊し始めた。
 わたしは女の手を取り、窓から飛び出した。

 二度目のダイブは布団の中に着地した。つまり、目覚めたのだ。当然だが、女はいなくなっていた。
 腕の中に、女を抱いた確かな感触が残っていた。
 とてつもなく大事なものを失ったショックが込み上げてきた。
 激しい喪失感が胸を締め付け、涙が溢れ出て止まらなかった。
 ダーク・ピープルから逃れる代わりに彼女を失ったのだ。

 今回の体験は夢ではなく、体外離脱だと確信している。スクリーンの部屋が体のすぐ外側にある中継地点で、雨雲のトンネルを通って行き着いたのは、アストラル界の入口であろう。橋やトンネルはアストラル界への通路なのだ。
 塔の崩壊は、わたしが肉体に戻ってしまう際に生じた振動であろう。
 激しい耳鳴りと爆発音。それが体外離脱が始まる合図であることは、この体験の後に知った。そう、ロバート・モンローの本を筆頭に、体外離脱関係の書籍を読み漁るようになったのは、この体験がきっかけなのだ。再び体外離脱を行い、彼女に会うための参考書として。
 今となっては、塔の女がわたしの人生を大きく変える何らかのエネルギーであり、隠された遺伝子のスイッチをオンにする存在であったと解る。

 ダーク・ピープルは危険で恐ろしいが、再びあの世界へ渡り、彼女に出会い、今度こそ彼女を連れ帰るのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?