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ドリーム・トラベラー 第四夜

 これは見た夢の忠実な記録であり、夢の中の体験をノンフィクションと仮定できるとしたら、本作は小説を装ったノンフィクションといえるかも知れない。

壁を越える

 歴史的な建造物の廊下で仰向けに寝ていると、五、六人の若い男女がわたしの周囲に集まってきた。
「このどうしようもない奴をまともにするにはどうするべきか」
 腕を組んだ偉そうな女が議題を振った。
 わたしを取り囲んだ集団は迷惑な漂着物の処理方法でも議論し合うかのような調子で意見を出し合った。
「病院に連れて行くべきだ」
「それでは何の解決にもならない。根性をたたき直すんだ」
「その前に、正常な状態に戻すんだ」
「だったら病院しかないだろ」
「そもそも、僕たちがやるべきことなのか」
 議論は平行線だった。
「試してみる価値はありそうだけど」
 腕を組んでいた女が意見すると、全員が口を噤んだ。恐らく彼女がリーダー格なのだ。
「あれをやるから、ついてきて」
 全員が彼女の後に続いた。しんがりの者が振り向き、わたしがまだ寝そべっているの見ると舌打ちし、引き返してきた。
「起きろ」
 わたしは体が動かなかった。ここが夢の中で、明晰夢であることはとっくに認識していたのだが。
「どっちつかずの状態だね」
 男はそう言って、わたしの腕をつかみ、力ずくで起き上がらせた。
 どっちつかず……そういえば、夢から覚めつつある時点、目覚めた直後の半覚醒状態では体が痺れたように動かない。その状態に似ていた。
 いつもの明晰夢とは違う。わたしは疑心暗鬼になっていた。
 男がわたしの背中を押し、集団の先頭へ導いた。

 高さがおよそ二・五メートル、幅十メートルくらいの金属製の黒い壁が行く手を阻んだ。
 それは絵画を展示するために設営したパネルに似ていた。奥行きがどれくらいあるか判らないが、かなり頑丈に見える。仮設のレンタルパネルではなく、予算をかけて作ったものに違いない。
「ここを乗り越えて」
 リーダー格の女が命じた。
 パネルの表面はつるつるで、どうやっても素手で上ることは出来そうにない。ジャンプしても先端には手が届かないように思えた。
「向こう側の奴らは、あなたがここを飛び越えられるとは思ってない。だからチャンスなの。ここを越えることで、彼らをはあなたを認めざるをえない。まずそこが出発点」
 何がチャンスなのか解らない。向こう側に何があるのか、壁の端まで行って覗いてみたい衝動に駆られたが、叱られそうなので出来ない自分が情けなくなった。
「わたしだって、あなたがここを越えられるとは思ってない。悔しいでしょ? だからこそ挑戦して欲しいの」
 説得され、夢の中のわたしはその気になった。
 まずはジャンプを試みたが、現実の肉体と同じ程度までしか飛べなかった。
 今度は助走をつけ、壁を駆け上がった。見た目通り、壁の建て付けはしっかりしており、多少揺れる程度だった。しかし、半分くらい上がったところで足の筋力が限界に達し、背中から真下に落下した。痛みは感じない。いつものように、不思議な脳の振動に加え、耳鳴りを感じただけだ。
 わたしは何かしらアドバイスを期待してリーダー格の女に目を向けたが、女はなぜかプク顔で睨んでおり、わたしは教えを請う気が削がれた。
 壁を越えるには、スピードと筋力の両方が必要に違いなかった。
「あなたには、自分が何のために生まれてきたかなんて解らないでしょう」
 女が言った。その通りなので何も言い返せなかったが、それが解っている人間なんてめったにいるものではないだろう。生きる意味が解らないから誰もが迷い、無駄に足掻き、自暴自棄になったり犯罪者になったりする。いっそのこと生まれる前から決まっていて絶対に変えられない制度にでもなっていた方がどんなに良いか。それが社会全体のためになると思う。
「生まれてきた意味を見つけるために生きるなんて余裕は、あなたにはもうないの! 今すぐここを越えて、向こう側の連中を見返すのよ!」
 なんだか解らないが意欲が湧いてきた。明晰化を強めれば、こんな壁などひとっ飛び出来そうだったが、何かが明晰化を阻んでいた。
 わたしは現実の体で出来る方法を試した。斜め横から思い切り助走をつけ、蹴あがるように、弧を描きながら壁を真横に走った。
 やはり、途中で力尽きた。だが、腕を伸ばして壁の上端に指をかけた。腕の力で体を持ち上げ、壁の上端に達した。
 壁は想定していたほどの厚みがなく、一気に向こう側へ転がり落ちてしまった。

 わたしは仰向けに寝ていた。
 振り出しに戻ったのかと思ったが、今度は白衣を着た医師らしき集団がわたしを取り囲んでいた。集団はびっくり眼で見下ろしてきた。みんなカルテのような物を手にしており、そこに何か書き込んでいる。
「はい。請求書ね」
 ナースの恰好をした女が頭の横にしゃがみ、タブレットを差しだした。九十九万というとんでもない額が記載されている。名目は交際費とある。
「こ、これはなんの……」わたしは言葉に詰まった。なぜか、訊くのはやぼな気がした。ここは当然のように受け入れるのが紳士だろうと、わけもわからず納得してしまった。値引き出来ないか、分割できないか交渉するのはみっともない気がした。
 夢の中のわたしが意思を強め、理不尽さを受け入れている。夢だと判っているのに明晰化は弱まる一方である。
「長い付き合いになるわね。治療と教育の両方が出来るのはわたしだけだから」
 とても個人では支払えないし、妻に相談するわけにもいかない。会社の経費で落とせばいいかと安易に考えてしまった。
 突然、請求書が宙を舞い、白衣の集団が四方八方へ散っていった。
 女が悲鳴を上げた。
 わたしは不穏な気配を感じ、何気なく壁の上端を見上げた。
 何か〝もやっとした黒いもの〟が壁を越えて来ようとしていた。
「資格のない者が壁を越えたからだ」
「迂闊だった」
「どうするんだ」
「もうどうしようもない」
 壁の向こうで話し合う声が聞こえた。
「いや、こっちへ戻せば、もしかしたら……」
 〝黒いもやもや〟は人の姿に変化し始めていた。
「完全体になったらお終いだ。あいつはもう……」
「もう間に合わない!」
 人型になりつつある〝黒いもやもや〟が壁を乗り越えると同時に、わたしは壁をよじ登り、向こう側に戻った。〝黒いもやもや〟と入れ替わりになったのだ。

 戻るのは驚くほど簡単だった。恐らく、〝黒い存在〟への恐れから明晰化が強まったせいだろう。わたしの体は飛ぶように軽くなった。
「やはり、まだ速かったのね。残念」
 リーダー格の女は、口では無念そうに言いながら、蔑んだ目でわたしを見つめた。
「おい! また来るぞ!」
 再び〝黒いもやもや〟が壁の上に現れた。輪郭がもやもやしているだけで、殆ど人の姿になっていた。
「見つかったら逃げられないってこと」
 黒いもやもやは腰を抜かすほど悍ましい瘴気のようなものを放っていた。怒り、憎しみ、怨み、嫉み、殺意、絶望といった目に見えない感情が凝縮し、狂気の炎で焼き尽くされたことで黒い気体として姿を見せたに違いないと、わたしの本能が確信し、人生最大の危機に匹敵するSOSを発していた。
 集団は既に姿を消し、リーダー格の女は腰から下を震わせながらゆっくりと後退っていった。リーダーが脅えるのを目の当たりにして、わたしの恐怖は加速した。
 また壁を越えてもきりがない。わたしは壁に背を向け、逃げ出した。体感で時速百キロを超える速度で進んだ。これだけ速ければ追ってこられないだろう。安堵するとともに、壁から逃げたことを後悔した。また逃げ続ける人生が続くのか……失望感が込み上げてきた。

 目を覚ましたわたしは、〝黒い存在〟から逃げ切った安堵よりも、乗り越えるべき壁から逃げ出した後悔の念に苛まれ、絶望に打ちひしがれ、しばらく起き上がることが出来なかった。


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