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ドリーム・トラベラー 第五夜

 これは見た夢の忠実な記録であり、夢の中の体験をノンフィクションと仮定できるとしたら、本作は小説を装ったノンフィクションといえるかも知れない。

出産

 分娩室で苦しむ妻に何もしてやれず、わたしはただおろおろするばかりだった。そんな態度を見かねたのか、看護師は廊下に出るよう促した。
 閉め出されたわたしは長椅子に腰掛け、祈るような思いで手を重ね合わせ、目を閉じた。
 待てよ……わたしに子供が? そんなことはあり得ない。妻は妊娠してさえいないのだから。とするとここは――。
 わたしは早くも夢であることを疑い始めた。

 廊下の奥から、異様に細長い両手両足を激しく振り回しながら長身の看護師が近づいてきて、わたしの前に立ちはだかった。
 わたしは長椅子に座ったまま、そいつの姿を見上げた。その顔を目にした途端、わたしは凍り付いた。青白い顔の中にある細い目は、三白眼を超えてほとんどが白目で、白目の中央にホクロのように小さな点が鎮座していた。まるで、サム・ライミ映画の死霊の顔だった。死霊の顔に蜘蛛のように細長い手足。こいつは人間なのだろうか。
 死霊のような看護士は、手の平を上にして両手をしゅっと上方に振った。立て、というゼスチャーのようだ。
 わたしは不服ながら立ち上がった。わたしの背は彼女の胸までしかなかった。五十センチ以上の差。ということは、死霊看護士の身長は二・二メートル以上あることになる。こんな女が現実にいるわけがない。
 やはりここは、夢の中だ。
 そしてなぜか、これから懲罰じみた、虐げられる予感が募ってきた。
 その予感はわたし自身の思い込みであり、思い込みはそのまま明晰夢のストーリー構築に結びついてしまうのだ。
 まずい、逃げなければ――。

「ここにいたらご家族の方に迷惑となります。お帰り下さい」
 その姿に反し、品のある美しい女性の落ち着いた声だった。わたしは赤の他人と勘違いされているようだ。
 看護師に対抗するため、まずは夢をもっと明晰化し、夢という受動的束縛を解かなければならない。夢を見ている認識は出来ても、束縛を解くのは容易ではない。これには慣れというものがないのか。体が自由にならないので、まずは言葉で対抗を試みた。
「あの、僕は家族です」
 そんな簡単な科白が上手く発声出来ない。喉や口の中にメロンパンが詰まっているような、あのねちっ、ぎちっ、とした感覚だ。
「分娩室にいる妻の亭主です。ここで待つようにと――」
「侵入者はみんなそう言います。さあ、出口はあちらです」
 枝のように細長い指先が、なぜか天井の蛍光灯に向いている。
「これを見て下さい」
 わたしは財布から免許証を取り出した。現実の財布とは違って文庫本のような物体だったので驚いたが、免許証は中央に挟み込まれていた。
「妻の姓と一緒、住所も確認してもらえば――」
「そういった個人的なものは受け取れません」
 看護師はいきなり免許を口に咥え、噛みちぎらんばかりに上下の前歯で擦り合わせてから背後に向かって勢いよく首を振った。免許証が水平に回転しながら廊下の奥に飛んでいった。
 あまりに不可解で侮辱的な扱いを受け、わたしは言葉を失って立ち尽くした。こいつは看護士ですらない。ただの化け物だ。死霊蜘蛛だ。
「ここは病院です。セールス勧誘はご遠慮願います」
 畳みかけるように、思いがけない拒絶の言葉が死霊蜘蛛から発せられた。わたしを何かの訪問販売員だと思っているのだろうか。なぜ、どうしてそんな断定をするのか理解出来ない。
「だから、違いますって! 中の人に確認してもらえば判りますから!」
「中の人って何? あなたさっき家族だって言いましたよね? 家族が「中の人」なんて言うかしら? おかしいなあ!」
 確かにそうだ。わたしにとって夢の中の妻は分娩室の中にいる誰かでしかないので、ついそう言ってしまった。
「とにかく、追い出される筋合いはない!」
「しーっ。大声を出さないで。とにかく、お産の邪魔ですから」
 死霊蜘蛛はわたしの眉間に細長い枯れ枝のような指を押しつけ、そのまま前に進み出た。尖った指先が眉間にめり込んだ。すると、頭蓋骨を貫通し、脳の中へ挿し込まれ、精神を支配されるといった恐ろしい妄想が浮かんだ。脳を吸い取られる――わたしは無我夢中で死霊蜘蛛の指を払いのけた。頭がクラクラし、回転しながら足をもつれさせ、壁に顔を激突させてしまった。鼻柱を打ち付けたせいで鼻血が噴出し、白い壁に血痕を作った。床にもぼたぼたと鼻血が垂れ落ちた。
 死霊蜘蛛は「あ」と一言だけ発し、ポケットからピンセットを取り出した。そして、鼻血を流して苦しんでいるわたしではなく、壁や床の血痕を脱脂綿で拭き取った。
 死霊蜘蛛は、清掃作業が一段落着くと、まだ血が止まらないわたしの鼻を虫でも捕まえるみたいに親指と人差し指でつまんだ。出血を止めてくれるのかと思きや、なんと、つまんだ鼻を引っ張りながら歩き出したのだ。わたしは出入り口に向かって引きずられていった。鼻をつまんだのは、鼻血で床を汚されないようにするためだろう。
 ドアの近くまで来ると、死霊蜘蛛はようやく鼻から手を離し、その腕で左肩を小突いた。ふいを突かれたわたしは体を反転させてよろめいた。片足で踏ん張ると、自動ドアが開いた。その瞬間、枝の指先が再び眉間を突いた。わたしは後ろへつんのめり、自動ドアの向こうに尻餅をついた。
 こんなことで諦めるわけにはいかない。わたしはすぐさま立ち上がり、中に入ろうとした。
「いた!」
「まだいたのか!」
 ほかの看護師たちが集まってきて、再び病院に足を踏み入れたわたしはみんなに突き飛ばされた。
 その中に若くて美人の看護士がいたが、なぜか巨大なニシキヘビを手にしていた。
 その美人看護士がわたしの顔にヘビを近づけてきた。わたしは抗えなかった。美人のすることは正しいという先入観があるのだ。ところが突然、彼女の背後から殺虫剤のような缶を手にした、背が低く小太りの看護士が三人しゃしゃり出て来て、謎の液体を噴射しながら喚いた。
「ここでなにやってるの!」
「さっさと出て行って!」
「追い払え!」
 さらに増えた五、六体の小型看護士に小突かれまくり、自動ドアの向こうへ押しやられた。
 もう一度スプレーをかけられ、改めてこれは夢なのだと自分に言い聞かせた。いやしかし、何かを吹きかけられ、濡れた顔の感覚、小突きまくられた体の痛みは、現実の体験としか思えなかった。
 わたしは意識を強めた。明晰夢と認識したからには、意思の力を発動させ、思い通りに粉砕してやるのだ。
 しかし、集まってきた看護士たちを両腕で弾き飛ばそうとしたものの、力が入らなかった。まだ覚醒が足りないのだ。夢の中にいる認識はあるものの、夢の中の体を自由に動かすのは至難の技だった。
 わたしの体は仰向けに寝ており、夢の中で床に足を着けて立つだけでも大変なことだった。この感覚に慣れるまでにはまだまだ時間がかかりそうだった。
 そうこうしている間にも、看護士たちはわたしの意思とは関係なく自由自在に動き回り、わたしを病院の外へ投げ飛ばした。
 乱暴にされたのに痛みを感じなかったが、脳が揺れるような振動を覚えた。そのおかげで明晰化が強まった。
 わたしは一瞬で、浮かび上がるように立ち上がった。夢の中の体を自在に動かす万能感に満たされていた。
 閉ざされた自動ドアの前に立ち、ドアが開くところをイメージした。だが、ドアが開くことはなかった。わたしの体は宙に浮かんでおり、センサーは反応しなかった。わたしの体はものすごい速さで水平にドアから遠ざかったり近づいたりすることが出来たものの、足を地面に着けることは出来なかった。
 わたし自身の意思が自由になっただけで、夢の世界は強固にわたしを拒絶し続けたのだ。
 病院に戻るのを諦めかけた途端、わたしは背後へ引っ張られていった。

 そして目が覚めた。
 いつも通りポメラを起動し、たった今見た夢を記録した。
 今回は〝黒い存在〟の出現はなかったが、人間離れした恐ろしい存在から理不尽な攻撃を受ける不快さは強烈であった。
 ここに書いた通り、登場人物の顔やセリフ、情景は事細かく覚えていた。現実の事件よりもはっきりと。
 そのうち、夢と現実の記憶が混同してしまうのではないかと戦慄した。


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