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ドリーム・トラベラー 第八夜 ダーク・ピープルに追い抜かれた日

霊峰

 夢の中で、二度訪れている寺がある。普段の生活では全く記憶に上らないのだが、同じ寺の夢を二度目に見た時、思い出したのだ。といっても、寺の建物どころか鳥居さえも見たことがない。二回とも寺へ向かう道程、参道を歩く夢である。

 その寺は濃い霧に覆われた急峻な山の中腹にあるらしい。先細りの尖った山だが、高い山ではない。観光地として人気がある設定になっているようで、寺へ向かう陽炎の如き人々の後ろ姿が道々に現れる。

〝教授〟を先頭に、三人の女子生徒、そしてなぜかわたしが参拝に付き添うことになった。誰かが教授と呼んだわけではない。わたしはなぜか彼が教授であることを最初から知っているのだ。
 教授の受講生と思われる三人の女は、初対面にも関わらず、わたしと旧知の間柄であるかの如く馴れ馴れしかった。クスクス笑いながら横腹を突いてきたり、「知ったかぶり~」、「ほら、しっかりしなさい」などと、いちいち小馬鹿にしてくるのであった。無知で幼稚で世間知らずな子供に対するような扱いである。そんな風にいじられるのを、わたしは快く感じていた。わたしはMっ気があるのだ。
 山の麓にある休憩所に入ると、スタッフの女性が大あらわで駆け寄ってきた。
「申し訳ございませんが、欠員が出てしまいました。みなさん、調理実験に参加頂きたいのですが……」
 調理の〝実験〟って何だ? わたしの疑問は言葉に出せなかった。
「いいでしょう。こちらは五人もいますからお力になれると思います」
 教授が勝手に承諾し、わたしと女子生徒は渋々参加することになった。
 調理室はかなり広く、十列以上の長い調理台が並んでおり、前もって待機していた五十人ほどの生徒は全員女性だった。
 教授以外に男性はわたし一人だった。
「お願いね」
「出来るよね?」
「これも」
「あたしも」
 女たちから、矢継ぎ早やというよりほぼ同時に食材を突きつけられた。
 チャイムが鳴ると同時にわけのわからない〝調理実験〟が始まった。食材や調理器具が飛び交い、女たちのけたたましい笑い声や怒声、泣き声、悲鳴が重なった。調理室は上を下への大混乱となった。
 わたしは延々と女子生徒たちにこき使われ、けっきょく全ての料理を作らされた。あまりにめまぐるしく、自分が何をいくつ作ったのか判らなくなった。
「これはあまりにも……」
 腹が立ったたわたしが文句を言い出すと、彼女たちは一斉にわたしを取り巻いた。ここでは〝実験〟が目的であり、それに付随する〝料理〟については自分たちの仕事ではないと主張した。
「あんたが調理を買って出たんだよね?」
 一番気が強そうな風貌の女がにじり寄ってきた。
 え? そうだったけかな……とは思いつつも、わたしは何も言い返せなかった。
 調理室での意味不明な実験が終わると、今度は後片付けである。こればかりはみんなで協力するだろうという期待はあっさり裏切られた。皿洗いまでわたし一人に押しつけられたのだ。
「もう時間がないけど、どうするの?」
 先ほどは礼儀正しかった女性スタッフが威圧的な態度で詰め寄ってきた。彼女でさえ、当然わたしがやるものと決めつけているようだ。
 食器は生徒の数分、五十セット以上ある。これを全部洗うには、かなりの時間がかかりそうだった。
 わたしはムカムカしてきた。怒りが爆発し、絶叫しそうになったところでようやく夢だと気づき、明晰化した。
 何だこのおかしな夢は……。休憩所に調理室がある時点で気づくべきだった。
 今回は明晰化するのに時間がかかってしまい、とても不利な状況に追い込まれていた。この窮地を脱するのは難しそうだった。
「ねえ、どうすんのこれ?」
 女性スタッフはおたまでキッチンをガンガン叩いた。
「どうすんのか訊いてんの!」
 本当はおたまでわたしの頭を叩きたいのを堪えているように見えた。
「三分だけくれ」
 そう答えたわたしは、神業のように両手を素早く動かし、本当に三分で皿洗いを終えた。洗っている最中にも左右から早く早くと急き立てられて腹が立ったが、明晰化したことで夢の支配をはね除けた。現実世界での皿洗い生活三十年の経験を活かし、高速化を実現したのだ。
 わたしは「ざまあみろ」と言わんばかりに女たちに視線を向けた。ところが、女たちは「無理しちゃって」、「早ければいいってもんじゃないよ」などと口々に悪態をついた。
 わたしは言い返した。「こちとら皿洗いのプロだ。高校時代には、バイトかけもちで三年も皿洗いをしていたんだ」
 彼女たちは肩を叩き合い、下品に笑うだけだった。
 わたしは怒りより失望感に打ちのめされ、休憩所を飛び出して参道を進んだ。夢の中のわたしは、どうしても山の中腹にある寺をひと目みたい欲望、行かねばならない使命感や義務感に突き動かされていた。
 深い霧のせいで明晰化が弱まり、夢の支配に押し流され始めた。こうなると抗うのは難しい。明晰化は急激に五十%を下回った。
 参道の前方には、いくつもの人影が浮かんでは消えている。
 現れては消える、朧げな人影が向かう方角へ歩を進めた。人の後を追うことでしか気休めを得られなかった。
 霧の中に浮かび上がるいくつもの人影は、近付いてみると、実は丈の低い何らかの植物だったり、岩だったりして愕然とした。
 かと思えば、枝のような四肢の人物が樹を真似たポーズで静止していた。こうなるともう、人間か植物か岩かを区別することは出来なくなった。
 景色は色を失い、水墨画のようだった。
 やがて、いつの間にか参道の外側が急峻になり、足元が覚束なくなってきた。わたしは高所恐怖症なのだ。
 そろそろ登頂に到達する頃合いになると、霧の中の人影は増加し、いよいよ寺に近付いている雰囲気が濃厚になった。
「なにやってんのー?」
 休憩所にいる筈の女子生徒たちが、なぜか登頂から降りてきた。
 この絶対にあり得ない展開によって、再び明晰化が強まった。お陰で、言葉はすらすらと口を出た。
「君たちと同じだ。寺に行く。山の上にあるんだよね?」わたしは訊ねた。
 寺? 彼女たちは顔を見合わせ、一斉に吹き出した。
 バカみたーい!
 女たちの嘲笑がこだまとなり、麓まで届いているかのようだった。
 わたしは女たちに訊いたことを後悔し、頂上を目指して歩き始めた。
 あり得なーい!
 背後で新たな嘲笑が起こった。
 込み上げてくる怒りを抑えるのに必死で、いつの間にか山を下り始めていることに気付かなかった。
 山頂に寺はなかったのだ。では、どこにあるのか。何らかの原因で寺がなくなり、参道だけが残されているという馬鹿げた可能性が頭をかすめた。
 山を下るほど霧も晴れ、心も穏やかになってきた。霧が垂れ込めている間はうじゃうじゃいた人影が人っ子一人いなくなっていた。前にも後ろにも人の気配はない。一人きりで下山する寂しさで、わたしの心は再び陰り始めた。寂しさよりも不安と心細さの方が勝ってきた。
 こんなことなら、あの女たちと一緒にいた方がまだ楽しかった。
 わたしは踵を返し、再び山を登り始めた。山頂を過ぎて折り返し、数分前に女たちと出会った付近に到達した。ここまで来ても霧はなく、人影もなかった。
 女たちに追いつこうと、参道の斜面を駆け下りた。
 人とすれ違うこともなく、料理をさせられた休憩所が見えるところまで舞い戻った。
 休憩所の自動ドアが開くのが見えた。
 荒々しい勢いで、熊のような体毛に覆われた黒い生物が飛び出してきた。
 熊ではなく〝ダーク・ピープル〟だった。体毛に見えたのは、ぼやけた輪郭のせいだった。その邪悪な目は、いつも通りわたしを見据え、異様な早さで迫ってきた。とても逃げられない、逃げたところであっという間に追いつかれるだろうと解っていながら、わたしは駆けだした。
 ところが、一瞬だけ奴が熊のように見えたせいで、参道は消え失せ、一面、降り積もった雪に覆われてしまった。熊イコール雪がわたしの潜在意識にあるせいだろう。そして、最悪なことに、雪イコール歩きにくいという経験が、わたしの足を重くさせた。ダーク・ピープルはあっという間にわたしの隣に並び、わたしを追い抜いていった。

 耳鳴りの音量が急激に高まり、くぐもった破裂音が二発轟いた。

 目を覚ましたわたしは、いつになく激しい疲労を感じ、なかなか起き上がれなかった。肉体も精神も衰弱しているようだった。最も大きな違和感は、体が重く感じることだった。何か重い物を持っているとか、強い重力を感じるとか、物理的な感覚ではない。体重を計っても変化はなかった。体内の空気密度が高まったように感じるのだ。
 この日以来、わたしは考え事に没頭するようになった。我に返った時、何を考えていたのか思い出せないことが増えた。読書をしていても、何も頭に入ってこないことが多くなった。気付けば数十頁読み進めているのに内容を覚えていないのだ。声に出して、大声で音読を試みたが無駄だった。途中から何かを考え始める意識が優勢になり、自分の声が遠くなってゆく。やはり、何十頁も読み進めてから我に返り、何を考えていたのか思い出せないのだ。
 こうして執筆していても、いつの間にか指が止まり、五分以上経過していることがある。まるで寝落ちしていたような感覚だが、液晶画面には、これまで書き進めていたこととは何の関係もない、脈絡を失った言葉が羅列されていることもあった。

 わたしは恐ろしい。明晰夢の中で、ダーク・ピープルに追い抜かれたあの日から何かが変わってしまったに違いないのだ。


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