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近いうち、22年住んだ地元を出て行くことにした。

大学4年生の秋。就活を終え、時期柄、自身のこれまでとこれからについて考える機会が非常に多くなったため、人生の分岐点においてこのような決断を下すに至った理由を記しておこうと思う
(地元配属もあり得るのだけれども、いずれそう遠くない未来にここを出る)。

■怖かった

僕が住むのは、北海道の人口十数万人くらいの地方都市。
遊ぶ場所はちょっと少ないけれど、生活に必要なものはだいたいは揃うし、中心部に行けば人もまあまあ。

時期的には秋だけれども、この街に秋はなく、夏が終わればすぐに冷え肌寒く、冬が来る。そういう場所だ。

北海道にはもっともっと小さな市町村だってあるから、そこに比べれば幸いなことに不自由はなく、ここでずっと暮らしていくことができる。
将来何になるのかと聞かれる度、分からない、と答えていたけれど、まあ、いずれ勝手に僕もそうなるだろうとぼんやり考えていた、

のだけれども、大学4年間の沢山の出来事や出会い、そしてそれらについてまわってきた沢山の感情を見つめ直してみると、僕の視野や好奇心や自己実現欲求は、
自分自身が驚くほどの広がりを見せていたことに気がついたし、それはこの街のスケールに収めておくべきではないな、と思った。

このまちでずっと生きていくか、ここでない別の場所で生きていくか。
社会というモラトリアムから逃げるように過ごしてきただらしのない僕にも、その選択をしなければならない時がとうとうやってきて、まさに今がその瞬間であるのだと思うと、いつからかは分からないけれども、不意に恐ろしく、怖くなった。

何もそれは別に、このまちで生きている人々にとやかく思う訳でも、このまちに嫌気が差した訳でもない。

寧ろ、のどかで時間がゆっくりと流れていくような、自然と調和のとれた穏やかさこそが僕を僕たらしめたのだと思うし、それは素晴らしい日々だったと思う。

それを踏まえ、どうしてこのような選択となったのか。それは、僕という人間の潜在可能性が、もしかしたら思っていたよりももうちょっとだけあるのかもしれないと考えたからだ。

そしてそれが、若気の至りとかいうような一過性のものでなく、本当の、真剣の、心からのものだとしたら、さて、どうだろうか。
その可能性とやらを実現させうるのは、唯一、これまでの人生で経験してきた以上の刺激を受けることではないのだろうか。 

であるならば、ここに留まり続ければ必然、次第にそれらの意志はやがて窄んでいき、これまでと依然変わらず、進退のない無味乾燥な僕がきっと出来上がる。

社会人として日常のルーチンをこなし生きてゆくのなら尚更、目に入るものは真新しいものの方が良く、沢山の人と出会う方が良く、仕事はユニークで新鮮なものの方が良い。

今こうして抱いている前途洋々の志が、ここに留まることで「もしかしたら有り得たかもしれない別の未来」で終わってしまうことがただひたすらに怖かった。
そして、先に述べたように、その判断をしてしまえるのもまた僕なのだと思うと尚のことだった。

ここよりももっと沢山の経験や刺激を得られる場所があるはずで、それにただ思いを馳せ続けるだけ、夢物語にしておくだけ、そんな生き方を選ぶことで生じるであろう後悔から、目を背けたいと思った。

焦燥が僕を前へ進ませたと考えれば聞こえは良いが、この街のスケールに自らが落ち着いてしまい、全ての価値観や記憶がここだけで作り上げられてしまう未来を考えると、歳を重ねる度、自分が日に日に浅い人間になっていってしまうような気がして、時が止まったままの人になってしまうようで、怖かった。

そして、その感覚が正しいのかそうでないのかということについても、ここを一度出て俯瞰で見つめなければ確かめることができないと感じたのだ。

いや、一理あると言って欲しい訳ではないけれど、確かに、生まれてから死ぬまで、ずっと同じ場所に居て得られる経験には限界があること自体は、正しいとは思う。

ただ、そのコンプレックスの裏返しなのか「この街に住む人々は、顔かたちが違うというだけで、過ごし方が似ているし、そのせいで発想も似ているし、大体そっくりな生き方をしていて、つまらない」と思ったことがある。

それは、僕自身だって、ちっぽけな有象無象の、他の誰かからして見ればさしてパッとしない名無しの登場人物にしか過ぎない、ということを棚に上げた、見るに堪えないものだ。

そして、そう思われて良い気持ちになる人間など誰もいないだろう、何よりその人の資質など見かけで図れる訳がないだろう、という自分と、

でも、こんな所にいつまでも居たって、ねぇ?という痛い開き直りを振りかざしたがる自分とが、せめぎ合い、自己嫌悪した。そんなこともある。

小さすぎる。僕は、自分が「なりたくない人間」になってしまうのが怖いばかりに、周囲の人間にそれを投影し、大したこともないプライドを傷つけられまいと、勝手な牙を向いたりもした。こんなに怖いことはない。

■壊したかった

ありがたいことに、この情報化社会では、日常のニュースであるとか、トレンドであるとか、それらを享受する機会については、北海道の端っこの方で暮らしていても遜色無く、その点で考えれば、どこに居ようと頭が凝り固まってしまう心配はないのかもしれない。

だけれども、二十数年の地元暮らし、実家暮らしのぬるま湯に肩まで浸かった僕に圧倒的に足りていないのは、やはり物理的な刺激と経験、そして直すべきは怠惰な人間性、そして培うべきは自立の力である。

それらが僕の強烈なコンプレックスであることは常々自覚していて、前項で述べたような理想をどれだけ掲げていようとも、大層な御託を並べようとも、今様々な物事において頼れる感覚はこれまでの生き方の中で得てきたものだけであるし、偉そうなことをのたまった所で飯は作らないし、皿は洗わない。まず朝に起きない。

このような人間が成長するためには、多岐に渡って腐った性根を葉の部分から一度叩き直し、いや、壊してしまい、そこからまた新しい自分をストイックに作り上げていく所謂、創造的破壊が必要だと考えている。

15,6歳までに決まってしまうと言われる性格や人格を今から矯正する為には、それに見合うだけの大きな衝撃と変化が必要なのではないだろうか。

そしてそれを為そうとするのならやはり、ここを出て一人生きるという結論に終始する。

そうしてようやく、今までの僕はなんて浅慮で、凡庸で、愚昧で、寡見少聞で、脛齧りな生き物だったのだろうと、心だけでなく身体で理解することができる。今以上の内省を試みることができる。

この怠惰な生活様式と堆く聳えるコンプレックスは、ここまで壊して壊してようやく、一から創り上げることができるようになると思う。だから僕は、僕を壊して、一度僕でなくなりたいのだ。

文字に起こしてみれば中々に物騒だけれども、気を病んでいるとか、希死念慮の類とかでは全くない。大なり小なり誰もが通るはずの、「自分の人生を他でもない自分だけで背負い込む」という道を、この歳になっても歩めていないことを、ただ恥じるばかりである。自戒の念、もとい、自壊の念と言ったところであろうか。

■逃げたくなかった

もともと内向的で俯きがちであった僕が、大学生活の紆余曲折においてここまでのような知見を得られたことは、非常に幸運である。

だからこそ、その気付きの感覚を僕自身がずっと持ち続けなければならないのは当然の帰結である。

学校から家に着くと、さっきまであったはずの勉学への熱が冷めてしまうこと。説明会から帰ってスーツを脱ぐと、まともな人間になるための手練手管を忘れてしまうこと。

自分自身の可能性に賭けてみようと奮った時点で、そんなような生き方を今のままの場所で続けていくことが、次第に自分自身から逃げることを意味しだした。そうしたくはない。

新しい環境に身を投じ、今までの僕から逃げなくてはならない。それから逃げたくない。
(何から逃げたくて、何から逃げたくないのか、書いていてこんがらがってきた)

僕によくしてくれた地元の企業の内定を、「ここを出て、もっと色々な物事を見てみたい」と伝えて辞退したのは何のためだろうか。
このまちを出て大成していく友人達を見てきたのは、何のためだろうか。
小学生の自分から、10年後の自分宛てに届いたハガキを捨てずに持っているのは何のためだろうか。

それは誰でもない自分自身のためではないのか。
「こう生きて行きたい」「こう過ごせたらいい」を、夢想でなく、現実のものにするためではないのか。

ちく、と刺すような惨めさ、自分という人間の矮小さから目を背けていくような生き方を僕はしたくなかった。これまで脈々と続いてきた僕という人間に対しての責任を取らなくてはいけないと思った。今のままでは、これまでの僕に顔向けできないと思った。見合うだけの人間にならなくてはいけないと思った。それらから逃げたくなかったのだ。

■あとがき 再び色を付ける

唐突に問いかけるけれども、あなたは常日頃、家を出た時やいつも通る道の景色に特別足を止めて目をやることはあるだろうか。当然、ない、と答えるだろうし、僕だってしない。

この時点で、目に映る景色には「色が付いていない」のだと思う。意識せず、見渡さず、手足を動かしている時点で、それは透明な三次元空間を歩いているのと何ら変わらないと思う。これが景色だけの話に留まるなら、まだ良いのだが。

何も味わわずに食べ物を口に放り込むならば、それは「味が付いていない」だろうし、無意識(座禅とか哲学とか無我の境地的類でなく、思考を放棄したという意)で生きるならば、それは文字通り「頭が空っぽ」なんだろうし、それが人生というスケールになれば、最後には「時が止まって」しまうと思う。

つまるところ、僕が今置かれている状態から助走をつけ飛んで行くためには、行動に、意識に、感情に、景色に、周りの人たちに……と、僕について付いて回る事象の全てについて、深く考え、理由付けをし、もう一度色を付けていく必要がある。

今は色が付いていない、というような表現だと、日頃悩みを抱えて生きているだとか、あなた、私と居た時楽しそうな顔していた癖に、本当はそんなこと思ってたのね、最低。とか、
そんなことを言われそうだけれども、そういうことではない。

無色透明で陳腐となりつつある人生を怖がり、壊して、そこから逃げる。そして沢山の経験や出会いや挫折や成長で、今から新しい色を付けていく、という作業に取り掛かっていきたいのである。

そして、今回下した決断が、自分自身をどのような結末に導いたとしても、自分の可能性に賭けた自分自身を信じる。「自分が信じる自分」を信じようと思うのだ。

……とかく、学生生活最後の秋冬を迎えた今、この場を借りて、僕を作ってくれた全ての出会いや出来事に、勿論袖が振り合うだけのような些細な物事にも、今ひとたび感謝の気持ちを伝えたい。

僕はどこに行っても僕らしく頑張っていくつもりだから、あなたもあなたらしく頑張っていけば、きっとお互いに良い事があると思う。いや、ちょっと強がった。誰かを応援したら、誰かも僕を応援してくれるだろうと思った。

そんな事を考えた。じゃあまたどっか遠くで。

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