素直に伝えるだけでいい。
こんにちは。
今日は、noteで発信をする理由と、自分にとって書くことってどんなことなのかについて書きます☺︎
書くことに求めていたこと
この結論が自分の中で出たのは、だいぶ前で、もともとは、自分だけのために誰にも見せないノートを書いていたんですね。
本当に子どもの頃(8歳くらい)から書き続けていますが、日記という感じではなくて、日々の出来事について書くというよりは、起きたことに対して感じたことや考えたことを書いていたんです。
で、そのなかでいちばん多かったのが、疑問なんですね。
わからないことに出会ったとき、ひとに聞いたり調べたりしてもわからないとき、その疑問を「?」をつけて留めておく。
自分のなかに疑問ボックスみたいなものがあって、その中に入っている題目については、普段意識していないけど、そのヒントになるものに出会ったときに、思い出すようになっていますよね。
答えはわからないのだけど、疑問自体をできるだけ明らかにしておく、というのを、書くことを通してやっていて、本当にこの恩恵を受けてきたなとおもっています。
書きかた自体は子どものときからまったく変わっていなくて、
必要から編み出されたスタンスだとおもうんですが、
たとえば学校などで嫌なことがあったときに、それを親や周りの大人に聞いてもらう、という発想があまりなくて、忙しそうな相手に話を聞いてもらうということをもともとあまり期待していなかったようにおもいます。
それよりも自分の中できちんと腹落ちして、翌日を過ごせることのほうがずっと大事だったんですね。
ちゃんとわかったら、大丈夫だっておもっていたから。
明日からの自分が大丈夫かどうか、というのは常に最優先事項で、
ちょっと誰かと喧嘩したり、うまくいかなかったり、叱られたりしたことについて
そういういろいろに、一度自分として結論を出す、ということを書くことでずっとやっていたんだとおもいます。
今もそうですが、不安なのは行動指針が決まらないからで、それって、「同じような状況になったとき対策をもっていない」不安なんですよね。
ノートに綴って折り合いをつける、というのが自分なりの攻略だったわけですが、これは、誰かに頼る(話を聞いてもらう)よりは自分でできるこの方法のほうが確実だし容易だ。と考えていたのだとおもいます。
書くことで理解して、それを自分で読むことで、発展させていました。
その過程で考えていたんだとおもいます。
書くことは言語化なので、言葉になるまで考える(取捨選択を繰り返す)ことになりますよね。
何かがあったとき、
それに対して自分や相手が行動する→自分が思ったことがある→それとは別に相手の反応がある。起承転結というか、それで【できごと】になります。
【できごと】は、起きた時点ではそれが何かよくわからなくて、反射的に快、不快と感じたりするだけ。
なんとなくの、ぼんやりとした色のような印象がつくだけです。
で、自分は一度、それをよく考えたかったんだとおもいます。
あれは何で、どういうことだったのか?そこに意味や理由があるかどうかはともかく、よくみてみたい。
細かくみると、わかることが増えるので対処できる、そういう感じだったし、今もそう。
逆に言えば、わからないままにしているのが不安でもあった。
これも今もそうです。
正しさではなくて、自分はこう理解したという結果、その理由がほしかったんですね。
そういう必要があって、理解という目的に対し、書く、というツールをずっと使ってきたんです。
Direction が決まる
では、100%自分のためにやっていたことを、なぜこの場に出す必要があるのか。
それは、(自分が)こうしていこうということが決まったからだとおもいます。
仕事に限らず、こういう目的で、こういう指針をもってやっていこう、という意味でDirectionが決まり、細かいPlanは変わるけれども、大きく方向がズレるということはないだろうな、というところまでの結論が出たから。
自分ができること、やろうとおもえることのなかで、これがいちばん、自分の望む世界を推進できるし、やってきたことも、考えてきたことも活かせる。何より、自分がやっていてものすごく楽しい。
具体的にやることが決まったというより、なんとなくの「どうやら自分はこうしていくのがいいっぽい」というものが見えて、よりそれに近づくために、味方をつくったり、誰かとお互いを高め合うような関係をつくる必要がでてきました。
そう決めたときに、真っ先に必要になったのが【自分がどんな人間か】を伝えること、その手段をもつこと、だったわけです。
商売としてこれを売っていきます、というよりは、「こういう理由で、こんなふうにしていきます、そのための今の手段はこれです」ということ。
理解してもらうことが、ひとつゴールだとしたとき、「このひとは何なん?」っていう具体的な部分を伝えないといけなくなったので、
いつだって選ぶのは相手なのだから、自分をひらいて、知ってもらう努力をすることが必要だと理解したわけです。
それが、noteでの発信を始めた理由で、それがなければやらなかったでしょう。もともと自分のためだけに書いていて、それが必要にして十分だったわけですから。
目的が変わったんですね。
今日の次に来る明日とか、その先にある将来みたいなものに不安を感じて自分がどう行動するか、ということを決めるために、理解することが必要で、それには起きたことをよくみて分解したり結論を出したりする必要があった、これが最初の目的です。
対していまは、
伝わってほしいひとに、伝えること。
が書く目的といえます。
オンラインで対応することも増え、実際にお会いできる人のみが相手でなくなった以上は、発信は避けられないし、特にいまは、いかに会わずして価値を提供するか、というのが世の中全体のあたらしい課題になっています。
だけど、矛盾しているようですが、やっぱり、会ってもらう、ということも私は目指しているんですね。
先述のとおり、長期的に味方としてともにあれるひとや、高めあえる関係をつくっていきたいからです。
そうなったとき、知ってもらう手がかりとして、
どんなことがあったときに、自分という人間はどこを見てどのように考えるのか、という情報のストックをもっていたのはラッキーでした。
しかもそれが《自分の外》にある。
どうしようもなくそうするしかなかっただけなのだけど、手に負えなかったいろんなものを、《自分しか見ない場所》に書き続けてきた記録をもっていて、必要になったときに、どっかにあったな、と立ち戻ることができる。
自分でも自分がどう認識しているかってわからなかったりするし、美化や思い込みに邪魔されるので、これがあるのは本当にラッキーだったなとおもいます。
価値観を言語化する価値
少しずれますが、私がコーチングセッションにおいて、依頼者の目標達成にとって最も効果がある、と考えているのは《自分の価値観を言語化できる》ことです。
言葉という形に残るものにして、自分の ”外” に置いておけること。
自分の中の認識は、覚えていることしかもっておけないけれども、困った時に外にも問い合わせ先があるのはすごく安心感があります。
外に出すことで自分との距離ができるから、客観視できると同時に
形にして外に置いてある、ということで、必要なときに再度確認することができるんです。
メモをとっても、録音をしてもいいけれど、何より、コーチという他人の頭の中に依頼者の価値観という情報が入ること。ここに価値があるとおもう。
自分以外に自分の行動の価値観チェッカーが増えること。
目指すものがあって、がんばらないといけないとき、状況に応じて対策を立てないといけませんが、このチェッカーがないと、
必死になるあまり目的だけにフォーカスして自分が置き去りになりやすく、結果、目標はなんとか達成できたけれどすごく疲弊する方法をとっているとか、
今回はうまくいったけれど、今後同じ方法で達成できる気がしないといった、《持続不可能》な手段を選んでしまう。
再現性の低い方法ほどギャンブルに近くなるので、対策そのものの質に左右されやすくなってしまうんですね。
一方、あらゆる状況で現状を加味しながら
《いつも自分にとってベストな答えを出せる自分》になると
(私はこれこそが、コーチングにしかない効果だと考えていますが)
何を選んだとしても納得感があるので、それだけで幸福度があがる、というとおおげさですが、少なくとも行動に対して後悔するということがなくなります。たとえ失敗してもです。
(次の挑戦への最も価値の高い材料は前回うまくできなかったことなので)
この、いつも自分にとってベストな答え、選択肢をとれるようになるために、価値観の言語化がおおきく作用します。指針になるんです。
未来の自分の味方になる
ここで、冒頭の結論に戻ります。
そもそもこの言葉も自分のデータベースの中にあったものなんですが、
たぶん、コーチになるずっとずっと前から、自分でわかる、ということが大事だと感じていて、そこに解決策を見つけていた人間なんだとおもいます。
ひととの比較ではなく、自分の場合はこう、と【わかっている】こと。
ひとにわかってもらうのでなく、自分でそれを把握できていること。
それがいざというときに自分を助ける、というのは、場所や国が変わることでルールが変わり、0から方針を構築し直すという体験が多かった時期に知りました。
人と同じようにできなかったり、比較を片手に非難や批判をされても、
単に自信を持っていることや、他人にどんな評価を受けたかよりも、
自分が自分の方針を理解している、ということのほうが、よほど自分を守ってくれる。
それを選んだ自分と手をつなげるか、というようなことですが、
本当に何度も何度も、そういうことがありました。
わかるためのヒントはいろんなところにあります。
啓発本や、海外のビジネスモデルや、YouTubeや、世界の歴史や、そういうものの中よりも、あくまで自分の場合は、
【過去の自分が書いているもの】のなかにある。
その確率の高さといったら、なんというか、拝みたくなるほどです。笑
目標を立てたり、達成したいことがあるとき、みているのは未来ですが、そこへの方針を決めるのに過去の体験を読み返すことでヒントを得てきた。
何度も繰り返している同じ言葉や主張、疑問や仮説や暫定的な答え、前向きさと根暗さ。行動と動向の記録。
そういうものにどれだけ勇気をもらって、結果、決断ができてきたか。
それを自分で見てきたから、その価値がわかっているつもりです。
セッションにおいて依頼者本人が言葉にするのを支援するのは、辛抱が要る作業ですが、自分の場合はこの価値を体験から知っているから、助け舟を出さずに思考に付き合うことができるのだとおもうし、
この実体験そのものが、コーチとしておおきなリソースであることは間違いないとおもいます。
なんというか、
過去の自分も今の自分も、誰よりも未来の自分の味方なんだとおもうんです。
比較の相手にしてしまうこともあるけど、やっぱり、どちらも協力的な理解者なんじゃないか、と。
変わってないなぁという、苦笑いのような安心感や、
それでも、すこし成長したな、という、照れとともに親近感、
何度も読んでいるのに改めて気づく、こんなことおもってたんだ、というよそよそしさ。
そういう全部がそのデータベースにあって、このnoteには、
そのなかのものを少しずつ出していっているんだとおもいます。
そのデータベース自体が自分自身だし、誰よりも自分がそんなふうに自分を理解してきたので、そうするのが、いちばん自分というものをわかってもらうことに繋がるとおもったんですよね。
だから、素直に伝えるだけでいい。
今の自分自身をちゃんと出していくこと。
それしかないんだな、ということがわかって、それしかできないからこそ、それを精一杯やろうと決めたので、見てのとおりですが、noteはかなりまじめに書いています。笑
ひとに価値を与えるために書いているのかというと、それは目的ではなくて、結果としてそうなればすごく嬉しいけれど、やっぱり目的ではないです。
逆に書くこと以外でやっていることが、誰かに価値を提供するためにやっていることですね。
なので、自分や自分が関わるひとを知ってもらうこと、それをおもしろいと感じてもらったり興味をもってもらえる入り口として書いています。
プラス、やっぱり、これを自分があとで読み返したときに、親しさを感じるものであってほしいし、このときこんなことを考えていたから、今こういうことにつながったのかな、という材料にできるくらいには、考えやキャラクターが伝わるものにしておきたい。
未来の自分も大事にできるようなものにしたいんですよね。
そういうものがやっぱり、そのときの自分を助けるとおもいます。
今日は、書くことについて書きました。
読んでいただきありがとうございます。
最近は、記事自体にコメントをもらったり、お会いした際にnote読みましたとか、感想をもらえることもたまにあってそれが本当にうれしいです。
書いてきてよかったなとおもう以上に、出してみてよかったなっておもいはじめています☺︎
えんぴつからボールペンになって、フリクションになって、万年筆になって、キーボードになりましたが、自分しか見ないノートは今も書いてます。そっちが源泉で、こっちが温泉みたいになるといいな、と。笑
自分をちゃんと出してみることで合う人とつながって、お互いがおもしろいことができたり、それが加速したり広がったりする。
得意なことで役に立てたり、発展し合う関係ができる。
そして、そういうことを楽しむひとの数自体も増えることを目指してやっていきたいなとおもっています。
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