「言いたい事を言うべき時に言う事」#思い込みが変わったこと
天気予報を見ずに娘を小学校へ送り出してしまった後で、雨が降り出した。下校時に娘の傘を携えて校門で娘を待っていると、同じような保護者が四、五人並んでいた。
娘が仲の良い友達二人に囲まれて校舎を出てくるのが、遠くの方に見えた。友達の傘の下に代わる代わる潜り込んで、笑いを誘っていた。家の中では見ることのない、友達に向けた笑顔を見れて嬉しくなった。
私に気付いて「パパ、ありがとう!」と駆けてきた時、近くで大きな声を上げる生徒がいた。娘はすかさず「○○君! 下駄箱の所でも言うたやろ! 大きな声出さないで!」と怒りを露わにして、直接その子に注意した。
聴覚過敏の娘は、現在イヤマフを学校に置き、必要な時に応じて適宜使用している。四年生になって担任の先生が初めて男性になり、声が大きいからと、通常授業の際にもイヤマフを装着するようになった。
娘が幼稚園の頃、休日ののんびりした時間、ふと大きな声で娘を驚かしたことがある。思いも寄らず娘は大泣きし、驚かされたことがものすごく嫌だったということを訴えた。以来娘に向けて大きな声を出すことはない。工事現場の近くを通るのは避け、大音量を流すパフォーマンス系のイベントなどは行かなくなった。
娘が自分の想いをはっきりと言い表してくれたから、娘の苦しみに気付けた。
思ったことを隠さず言うのはいいことばかりでもない。三年生の時に半年間不登校に陥ったのも、クラスの問題児に真っ向から立ち向かって注意した際に受けた暴力がきっかけだった。
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私の場合、そうではなかった。
何かを親に言った際に、受け入れてもらえなければ、もしくは通じなければ、諦めた。
私と母親との「音」に関する記憶で、近頃よく思い出すことがある。
他人から見れば些細なことかもしれないが、私にとっては大きな出来事だった。
中学一年の頃だったと思う。
中学に上がり音楽に興味を持ち始めていた私は、当時の友人から借りたカセットテープに入っていた「X JAPAN」の曲を聴き始めたあたりだった。
テレビの音楽番組に彼らが出演していた。ビデオ録画などはしておらず、私は彼らの曲を一生懸命聴こうとしていた。
母親は、その時にする必要のない話をし始めた。
私は母に向かって言った。
「これ聴いてるからちょっと静かにして」
母は静かにするどころか、声量を更に上げて、全く今する必要のない話を、私のテレビ視聴を邪魔するように続けた。
私は頭に血が上って怒り出したはずだ。ほんの数分、静かにしてくれるだけで起こらなかった軋轢だ。母にとってはちょっとふざけただけのつもりだったかもしれないが、私には許せることではなかった。
どの曲のことだったかは覚えていないが、その時の母に対する「許せない」という想いは忘れることはなかった。
その後も何かにつけ、私は母には何を言っても無駄だということを思い知らされ、上辺の言葉以外で話そうとはしなくなった。
「この家のローンはあなたたちの代まで払ってもらうのだから」という言葉を聞かされ続けた。兄は家を出ていき、私は家のローンの支払いと両親の世話だけの未来しか見えず、頃合いを見て死のうとしか考えていなかった。その後自分が家族を持ち家を出ることになるなんて想像もしていなかった。
母の性格といってしまえばそれまでだろう。
だが私が子どもの頃から、「それだけはやめてほしい」ということを、諦めずに訴え続けていたら、こうはならなかったかもしれない。
兄が奥さんを連れてきた時のこと。
当時毎日深夜まで仕事をしていたという兄の帰りを待っていた義姉は、精神的にかなりまいっていた。兄は母に事前に告げていた「(母の仕事であった)保険の勧誘は絶対にやめて」と。
しかし兄が父と話し込んでいる間に、母は義姉に保険の見直しの話をしてしまった。
以来、祖母の死と父の入院の時にしか、兄夫婦とその子ども二人は両親に会っていない。
他の人から見れば「何でそんなことで」と思われることかもしれない。
しかし母は私にしろ兄にしろ義姉にしろ、当人にとっては重要なことを全て「気にし過ぎ」の一言で一笑に付してきた。ないがしろにし続けてきた。事あるごとに。何十年も。
私の娘の幼稚園年長組の生活発表会の際、下の子を産んで間もなかった妻の代わりに、母を連れていった。劇の練習を熱心にしてきた娘の晴れ姿を見せるためでもあった。発表会が終わった直後に出た母の言葉は「ああ、長かった」だった。
数十年分積み重ねられた何気ない心無い言葉の数々。兄の家族と同じく、私の家も母と疎遠となりつつある。妻が働き始めた際に、娘との留守番を頼んだところ、娘がどれだけ訴えても、実家での過ごし方を我が家でも貫こうとして、真夏でもエアコンは付けられず、電気の光量は薄暗いままにされたとか。
三十年近く前の私が、諦めずに母に怒りの言葉を率直に言えていたならば。
その時だけでなく、その後も折りに触れ思い出して訴えることが出来ていたら。
同じような出来事が起こる度に言い続けていたならば。
ひょっとしたらどこかで何かが変わっていたのかもしれない。
母は会いたい時に孫に会えていたのかもしれない。
私は「言っても無駄」だと「人は変わらない」と思っていた。
その気持ちは母だけに限らず、学校でも職場でも同じだった。
他人に対してだけではなく、自分に向けてもそうだった。
だから他の人に何を言われても自分は変わらなかったし、他の人を変えようとも思わなかった。
不登校直後に突入した夏休みのある日、娘は真夜中に起き出して私に訴えてきた。
「○○君(娘に暴力を振るった生徒)の顔や名前を思い出すだけでつらい気分になる。名前の最初の文字が同じだから、けんちゃん(弟の名前)が呼ばれる度にびくっとなる」
私は娘に「学校に行く必要はない」と伝えた。
「実はパパだって、今思えば学校になんて行かなければ良かったと思ってるんだ」と伝えた。
その後紆余曲折を経て(私の退職、学校との話し合い、娘の気持ちの切り替え、問題児の行動改善)、四年生になった娘は新学期から休まず登校出来ている。
私も幼い頃からいじめられていたが、日常的に暴力行為を受けていようと、両親にそのことを話すことはなかった。言いたくなかった、言い出せなかった。しかし正直にありのままの実態を、今の娘のように親に話すことが出来ていたとしたら。
「恥ずかしいことは人に言うべきではない」
「自分の親には何を言っても無駄」
そんなことはただの思い込みでしかなかったとしたら。
三十年以上前に、自分の人生は変わっていたのかもしれない。今の娘が登校再開出来ているように。
親の前でも隠すことなく、自分の言いたいことを率直に言っている娘の姿を見て、そんなことを思った。
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