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初夏と海と詩と中原に関する雑記

例えば、好きな作家について書こうとすると、上手くいかない、というより何も浮かばない、ということがあると思います。はて、と頭を振ってみても何かが出てくる予感がない。しかし、その作家について感じていることは、ある。むしろそれが大きすぎるがゆえに、文章としてあらわすことができないというのが実情ではないでしょうか。


初夏となりました。いや、最近の暑いこと暑いこと、参ってしまいます。このようなときには海に行きたいと、思い立ちます。海というのはひとつの人格であるように思います。人格である、ということは一体何でしょう。それ自体が何かを発している存在である、といえばいいのでしょうか。


作家の話から初夏、そして海の話、私は何を言っているのでしょうか。しかし文芸というのは何を書いても良いというのが本分でしょうし、きっとこの支離滅裂な滑り出しも、終わりごろには良い調和を生み出しているのではないかと、期待してもいます。


そう、そう、作家の話。今日は中原中也について話そうと思っていったのでした。しかしね、浮かんできませんね、何も。私は、彼のような詩こそ、詩というものの真髄を射ていると思っているのですが。しかしそれはなぜか? そう問われれば答えに窮する。作品以上のことを、私のように批評の才能のない人間が語れるわけもありません。


ポロリ、ポロリと死んでゆく。

みんな別れてしまうのだ。

呼んだつて、帰らない。

    なにしろ、此の世とあの世とだから叶はない。


今夜にして、俺はやつとこ覚るのだ、

白々しい自分であつたと。

そしてもう、むやみやたらにやりきれぬ

    (あの世からでも、俺から奪へるものでもあつたら奪つてくれ。

(『(ポロリ、ポロリと死んでゆく。)』中原中也『中原中也全詩集』角川ソフィア文庫より引用)

いい詩だ、と思います。「あの世からでも、俺から奪へるものでもあつたら奪つてくれ」と呟きのような、叫びのような言葉の後に訪れる、深い無言。その無言が私には聞こえます。私には想像を絶する、別離の無言。手を伸ばしても、声を叫んでも、此の世とあの世とだから叶わない。むやみやたらと、やりきれない。


詩は、本来、感情の芸術であったのだと思います。感情とは、ああ、そうです、人格であるということでしょうか。いや、それではあまりにも綺麗すぎる。しかし、人間が海に人格を見るとき、人は海に感情を見ている。私たちは生きる、生きるがゆえに発し続ける。なにを? 感情を、そして感情とは、喜怒哀楽にとどまらず、祈り、願い、性、祝い、呪い、四季への感受、他者への共感、踊り、歌、憎しみ、愛、怒り、許し、恋、別離、そのほか、人間が生きている間に経験するかもしれない幾多ものいのちの波うち、のようなもの、かもしれません。私はそれを「いのち」と呼びたいのかもしれません。


私は、「いのち」のある作品を読みたい。そして私自身そのようなものが現れている作品を書きたい、と思いつつ、日々を過ごしています。また、私のお気に入りの作品たちを、紹介させてくださいませ。それでは、良い夜を、あなたも私も、よい夏になりますように! 私は、海にたくさん行きたいな、と思っています。


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