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Photographer, web-designer 旅好き、うなぎ好き。noteでは、主に祖母の書いた日記(満州時代の記録)を紹介します。

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祖母の記録ーおばあちゃんは満州に居たー

Photographer, web-designer 旅好き、うなぎ好き。 noteでは、祖母が遺した日記について、書こうと思います。 私は、生まれたときから彼女と同居していて、私が高校生の時まで一緒に暮らしていました。 とにかく元気で聡明で、厳しくて。 一人で何でもしてしまう、今から思えばとんでもない元気なおばあちゃんでした。 80歳を超えても、バックパック背負って、一人で山へ登ったり、新しいこと、例えば点字、を始めてボランティアをしたり、と生きることを全うしよ

    • 9)「二十年 辛抱しなさい。その子が大人になった頃、 又 日本と仲良くなるからね。」

      前回の記事壁の言葉「此の恨 千歳に忘れず」 一部軍人の独りよがりの頭で考えられた事が歯止めのきかぬまま暴走して 取り返しのつかない悲惨な戦争を何年もしてしまったのです。 戦争に聖戦などありません。 何百万人を不幸のどん底に叩き落し 大切な国土を原爆にさらされたり 余りにも大きな代価を拂わされました。 私は中国の人に心から謝り度いと思ってゐます。 「此の恨 千歳に忘れず」と田舎の一家の壁に老婆が血書きしてゐたと云う話を聞いた時 グサリと胸を突き刺された思いでした。 で

      • 8)引揚げ ー日本へー

        前回の記事新京出発やっと引揚げの話が出初めた頃です。主人達が急に呼び出されました。八路軍の大攻勢があるかも分からない 一カ月は婦女子は絶対外出しない事 厳命されました。 志が義雄民自分も日本人だから云う四平〇の惨を再び味わわせたくないから でも 其の後も大した変動なく 七月二十八日 新京出発が始まりました。 錦州では、三畳程の部屋に十二人体と体がどこかで重なってゐましたが 幸 私たちの〇では〇染病も出ず 〇〇から乗船出来ました。両手をとられて何かの予防注射 何日も〇から そ

        • 7)本当の「人の情け」

          前回の記事先人の侵した罪八路軍の兵隊さんは、私等には親切でした。子供を連れて昼飯を食べに来いとも云ってくれました。菓子を売っても 一ケ、自分が取り 残りは子供に与えてくれたり 貧しい者は互いに助け合うべきだと毛沢東の教えの浸とうしてゐるのに〇(※判読できず)伏した者です。 四月長女は新京市東光小学校に入学しました。入学式で校長先生は、蒋介石の好意でこうした集まりを許された事 先人の侵した罪を今自分達がつみとってゐるのだと語られました。 国境から今までの事が走馬燈の様に想い

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        祖母の記録ーおばあちゃんは満州に居たー

        • 9)「二十年 辛抱しなさい。その子が大人になった頃、 又 日本と仲良くなるからね。」

        • 8)引揚げ ー日本へー

        • 7)本当の「人の情け」

          6)新京での生活、悲しい事が多すぎて…

          前回の記事新京での日々七日から電報を打っても返答が来ないと主人が云ってゐました。(主人は暗号電報の係でした。)それは、恰度、私が金属音の飛行機を見た日と同じです。 もう此の時から新京と現地の連絡は絶えてゐたのです。  本社では、老黒山、東軍は全滅だと思ってゐたのに 一番乗りで帰って来た 奇跡だとも云ってゐたそうです。 ソ連機に追われ乍らトラックから降りなかった事 停車中の汽車が機銃射げきを受けても身を伏せて降りなかった私達 空襲警報が出ると列車のシートを掲げて、先ず妹をかく

          6)新京での生活、悲しい事が多すぎて…

          5)新京へ辿り着く

          前回の記事列車での攻防乳児を連れてゐたのは私だけ。 子供を泣かすな、と云われて必死になってゐるのですがお乳が出ません。出ない乳房を吸う子。ひしひしと身に迫る危機。 あなたのご主人は、死を覚悟して行ったな。皆で家族を守らねば。 と云って下さる。 桑野炭礦長の言葉によけい泣かされました。 でも、死ぬ時は、皆一緒だからな。落ちついて。と励まして居られました。長い長い時間の様でした。実際には どれ位だかわかりませんが、汽車が動き出した時、生きてゐる!! 何とも云えない感銘を受けま

          5)新京へ辿り着く

          4)主人の言葉「炭礦長 家族を頼みます」という言葉を残して警備についた

          前回の記事貨物列車での逃避行貨物列車でも屋根の中ですから眠りました。翌日停車した駅で〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇(※判読できず)等と云われて、心細い事。でもまだ軍の列車があったので便乗を許されて今まで同行した人達も分かれて満炭社員家族だけになりました。 図門に着いて行先未定の爲、〇(※判読できず)暗闇の階段を〇(※判読できず)子供を失うまいとのみ念じて昇り降りしました。よくあれ丈の力が出たものと自分でも感心したものです。何にも持ってなかったが夜の冷え込みは経験ず

          4)主人の言葉「炭礦長 家族を頼みます」という言葉を残して警備についた

          3)満州逃避行ー兵隊さんのことばー

          前回の記事家族の再会娥々たる山脈 千仭の谷 身も凍る様な思いをしたかと思うとパーッと目も覚める様な花々々 百花が一度機に咲き誇って短い夏を謳歌してゐる 今、自身の前途がどうなるかもわからない危険に直面してゐるのを忘れさせてしまう様な光景でした。 とっぷりと暮れてから、何処かの小学校らしき処に宿る事になりました。 人いきれと南京虫で眠る事は全く不能。子供達はぐっすりと眠ってゐました。満炭のトラックが谷底に落ちた‼ 死者も出ている様子、という〇(※判読できず)令を聞いた時 心臓

          3)満州逃避行ー兵隊さんのことばー

          2)満州での平和な暮らし

          前回の記事満州の日常直射日光に当たると〇〇(※判読できず)がピリピリするので、午后三時頃までは午睡 それから夕方八時頃まで働いてゐるのです。三軒程先に前餅(チェンピン) コウリャンを臼で引いて、ドロリとした物を鉄板で焼く。これが、子供等の大好物で毎日の様に買わされてゐた ニラ等はさんで食べると仲々おいしいのです。 そのコウリャンを引くのに小さなラバに目かくしをしてぐるぐる廻ってゐるのが面白いと子供が見に行くんです。何も楽しみのない国境でも子供はそれなりの楽しみをすぐ見付けるも

          2)満州での平和な暮らし

          1)満州での生活 ー祖母たちの日常ー

          前回までは、原稿用紙6枚に、終戦直後から日本に帰還するまでの満州での様子を書いたものを代筆しました。 今回は、広告のチラシの裏や、包装紙に鉛筆で小さな小さな文字で書いたものがあるので、それを書いて行こうと思います。 原稿用紙と違って、小さい文字で書いてあるので、これ(下記)だけ書くのにも時間がかかってしまいます。でも、今回のはとても新鮮。満州での日常生活が生き生きと書かれてあります。 老黒山での毎日東満の国境 十月初には 扉の引手は全部布を巻きつけます。一寸今日は冷える

          1)満州での生活 ー祖母たちの日常ー

          再生への原点「引揚港・佐世保(浦頭)を偲ぶ全国の集い」

          今回の手記タイトルのような手記を、原稿用紙6枚を書き終えた後に、たまたま見つけました。佐世保に着いた、という前回の記事とリンクしているようで、このタイミングで書くのがいいと思い、新たな文章を載せます。タイトルにある集いに参加する前に書いたもののようです。 思い出 広い海にポツンと見えたのは漂流している何か? 目をこらして見る。影がダンダン大きくなって来る。島だ!! 内地の島が見えたと言う絶叫に息をこらして見つめる。ああ帰って来た、日本内地の島が目の前にある。  日本の国へ

          再生への原点「引揚港・佐世保(浦頭)を偲ぶ全国の集い」

          国境を出てから Vol.5 ー難民生活から帰還までー

          前回までのあらすじ満ソの国境を出て、命からがら、満州の首都、新京に辿り着く。そこで新たな生活が始まる。 今回我々 難民は明日の糧を得るべく必死だ。迫撃砲が落ちたり自爆があったり共産軍の拉致を逃れる為 地下に潜んだり。一日とて安らかな日はなかった。 二十一年七月末から内地への引揚げが行われた。蒋介石だったから案外早く実行されたと聞く。一年間の苦難は何日話しても尽き無いが、とに角佐世保に上陸。【でも国境から苦難を共にした一人が既に上陸が開始された時なくなられた。心境や如何に。

          国境を出てから Vol.5 ー難民生活から帰還までー

          国境を出てから Vol.4 -内戦の中、物売りをして生活

          前回までのあらすじやっとの思いで、老黒山から新京へ辿り着いたが、そこでは、ソ連軍の暴行に怯える日々を送っていた。 前回からの続き食べる為に主人は苦力に 私は子供を連れて兵士達にたばこやお菓子を売りに出る。八路軍の兵士に子供は此処で食べさせてやる。自分達は朋友(ポンユー)だと云われて涙したこともある。 目前で突然内戦の銃撃戦が始まり 急いで帰る途中 右耳下をヒユッ‼‼と熱い物 銃弾がかすめる。 も一秒右を歩いてゐたら私は即死して居ただろう。生と死は紙一重を実感する。 長女

          国境を出てから Vol.4 -内戦の中、物売りをして生活

          国境を出てから Vol.3 -ソ連兵に怯える日々

          <前回までのあらすじ>ソ連との国境から命からがらの逃避行。列車で満州の首都、新京に到着。新京に到着した第一陣であった。 不幸中の幸いである。後になる程 状況は厳しくなる。 本社に着いて畳の上に坐る 十日に国境を出て十六日 一週間の逃避行は苦しかった 飛行機から狙われ続け 何回もう駄目と覚悟した事か。 機銃射撃で死亡 列車にひかれた人等。畳の部屋で坐って居る事が不思議でならなかった。 飛行途中の食事情は最悪だったから大人も子供も激しい下痢 乳が出なくなって乳児の元は、医師か

          国境を出てから Vol.3 -ソ連兵に怯える日々

          国境を出てから Vol.2 ー新京に到着ー

          この記事を書いた人、代筆した人の説明国境を出てから ー新京に到着ー 部隊長は満炭の配属将校だった隊〇(※漢字判読できず)中尉。軍の好意で各自3ケのお握りを貰って。何時来るとも分からぬ列車に乗るべく駅へ急ぐ。案外早く列車が来た。日本兵が乗っていて心強い。鉄橋は皆爆破して来た由。ソ連軍の追撃を恐れて。家族揃って腰かけられた 眠い眠い 皆眠り込んでしまって図門(ともん)に着いた。乗り換えなんだが、暗闇の中 空襲警報を聞き乍ら待合所で立ち乍ら眠る 子供等に毛布を体に巻き付けてやる。朝

          国境を出てから Vol.2 ー新京に到着ー

          国境を出てから Vol.1

          バリバリッ 機銃射撃だ。畳を一枚あげて窓に当てる。ソ満(*ソ連と満州)国境の夜明けは早いがまだ四時前。握り飯を作って居た。集合は七時だが幼児ばかりなので早起きして準備して居た。 直線距離にして五十米(*メートル)位に警察隊があるので影響をもろに受ける。射撃の続く中を軒下伝いに集合場所へ。主人は早くから警備に付いて姿は見えない。生後八ケ月目に入ったばかりの次男を背負って(6才5才3才 当時は数え年)を連れて乗れそうなトラックは無い。 絶望的な私に「伊藤さんの奥さん。早く」思

          国境を出てから Vol.1