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6)新京での生活、悲しい事が多すぎて…

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新京での日々

七日から電報を打っても返答が来ないと主人が云ってゐました。(主人は暗号電報の係でした。)それは、恰度、私が金属音の飛行機を見た日と同じです。 もう此の時から新京と現地の連絡は絶えてゐたのです。 

本社では、老黒山、東軍は全滅だと思ってゐたのに 一番乗りで帰って来た 奇跡だとも云ってゐたそうです。
ソ連機に追われ乍らトラックから降りなかった事 停車中の汽車が機銃射げきを受けても身を伏せて降りなかった私達 空襲警報が出ると列車のシートを掲げて、先ず妹をかくしてから自分が伏せた長女 汽車から降りた人の方が却って射げきされた。汽車の下えかくれた老黒山旅館のおかみが汽車に引かれて死んだり 人の運命は不思議なもの 死も生も紙一重である事を再三体験したのです。

でもいやでも敗戦を信じなければならない事が。
「もうこれもいらんからな。」
と云い乍ら 軍隊手帖を燃やしてゐるのを見たのです。これが18日だったと思います。

それから社宅を与えられて主人は苦力として働きました。
私は満人の家を廻って毛糸編物をしました。

9月末頃から辺地から新京え身も心もボロボロになった人達がボツボツ集まって来ました。影の様にヨロヨロと今にも倒れそうになり乍ら肉親を失い我が身も息絶え絶えになってでも日本人の居る所えの一念で新京までたどり着かれたのです。 本社の横の小〇〇〇は忽ち 墓標(束の切れ端)の山と変わって行きました。満炭が分離する時、各地の炭礦からの誘いに乗らなくて本当によかった。もしジヤラーノール等へ行って居たら恐らく 今日の私達はあり得なかったと思います。

何十年もの昔から負けた方から略奪する習慣を聞いて知ってゐるだけでしたが、眼前で見るのはまさに地獄図そのまま。平屋の社宅四軒が見る間に土台の棟瓦まで持って行かれてしまうのには寒気を覚えたものです。私の向かいの御主人は東光小学校の先生をして居られる方。明日は何が起こっても決して戸を開けたりしない様にと教え子だった人が前夜 知らせに来た由 そして翌日がこれだったのです。

新京での厳しく貧しい生活にも馴れて来ると、子供達の楽しみが一つ。ケエンゴーケエンゴーと呼びこえが聞こえると子供達は大騒ぎ。いやでも買わされるのです。栗餅の中に金時豆が入ってゐる砂糖の甘味と違った自然の甘味は仲々なものです。今でももう一度食べてみたいなと思う程です。

其の間にも、蒋介石軍と八路軍の内戦の爲、恰度 両軍地の中間に位置してゐた爲、銃弾が宅の内まで入った事もありました。

ソ連軍が入って来た時等 階下の〇〇(※判読できず)生活まだ日の浅い婦人が両親兄弟の目前で銃剣をつきつけられて辱めを受け、一晩中泣いて居られた。友人から預かってゐた娘さんがソ連兵におかされた責任をとり自爆された人(陸軍中尉) 内戦時トイレに居て頭部貫通でなくなった人と悲しい事が一杯でした。

新京に居住してゐた人は着物等を売って暮らして居られました。その売場で働いてゐた主人の前に2頭立ての立派な馬車が止まり、「我軍に協力せよ 生活の心配はさせないから 貴方の事は調べてあるのだから」と云われて驚いた事もあります。

でもこの話 断ってよかった 若し応じてゐたら今頃どうなってゐたか
私は兵隊さんの相手に煙草や菓子を売って歩きました 初めての日 家に帰ったら足の裏が痛くて畳の上が歩けなかった程でした。

内戦の激しい日 急いで帰る途中 右の耳横をシュルッ!!と云って弾が飛んでヒヤリとした。もう一歩右 歩いて居たら 私は即死するところだったのです。


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