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7)本当の「人の情け」

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先人の侵した罪

八路軍の兵隊さんは、私等には親切でした。子供を連れて昼飯を食べに来いとも云ってくれました。菓子を売っても 一ケ、自分が取り 残りは子供に与えてくれたり 貧しい者は互いに助け合うべきだと毛沢東の教えの浸とうしてゐるのに〇(※判読できず)伏した者です。

四月長女は新京市東光小学校に入学しました。入学式で校長先生は、蒋介石の好意でこうした集まりを許された事 先人の侵した罪を今自分達がつみとってゐるのだと語られました。

国境から今までの事が走馬燈の様に想い出されて私は泣けて顔があげられませんでした。私の右隣りの方も辺地から来られた人の様で帽子に顔を埋めて男泣きして居られました。ずっと新京に居られた人は何の感情もないかと思えました。この後 どの子の入学式も新京で感じた様な感激もなく、校長訓話も魂をゆすぶる様な〇〇〇(※判読できず)は感じられませんでした。

五月頃だったと思います。国境の頃の満人(炭礦で〇〇〇をしてゐた人)が尋ねて来ました。一緒に国境え帰りませう 一生食べる事は心配させませんと心からすすめて下さるのですが、あの国境え再び行く気は起こりません。丁寧に断ったものです。 人の情けと云う事をしみじみと味わいました。

次男の危機

忘れもしません。十二月二十八日 夕方 雪も積もってゐました。
朝方からソ連兵が荒れてゐるから一切の外出が禁止されてゐた夕方 次男の脱腸が入らなくてみるみる顔色が蒼白になって口唇も白くなって来る。この儘では、死は必定です。向かいの棟に鶴岡から帰られたお医者さんが居られるものを思い出し、窓を物干棹で叩いて子供の急を告げたら心よく来て下さいました。さあ。還〇できるかどうか一寸不安だが、と言われ乍ら温かいタオルでしばらくもんで居られました。四、五分だったと思います。急にグルグルと音がして大きくふくれ上がってゐた脱腸が、もとに戻り出しました。
全く死人の様な顔だったのにみるみる血の色が出て来ました 「よかった」先生も私達も同時に出た言葉です。
お名前も存じ上げない先生に一命を助けて戴きました。忘れ得ない出来事です。

厳寒の間は主人だけが働きました。

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