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8)引揚げ ー日本へー

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新京出発

やっと引揚げの話が出初めた頃です。主人達が急に呼び出されました。八路軍の大攻勢があるかも分からない 一カ月は婦女子は絶対外出しない事 厳命されました。 志が義雄民自分も日本人だから云う四平〇の惨を再び味わわせたくないから でも 其の後も大した変動なく 七月二十八日 新京出発が始まりました。

錦州では、三畳程の部屋に十二人体と体がどこかで重なってゐましたが 幸 私たちの〇では〇染病も出ず 〇〇から乗船出来ました。両手をとられて何かの予防注射 何日も〇から それこそお尻の穴までDDTを撒かれたものです。

日本円は一人千円決められましたが、国境から裸で出てゐる私達には そんな金はありません。新京を出発して〇がい車ですから雨に降られて困ったり、汽車が止まるとソ連兵がみなりのよい人の体を検査し 腕時計 指輪等を奪う等され乍ら 錦州に着きました。

兵舎の後の様な建物に収容され。先ず頭からDDTを〇〇に振りかけれれて、次は両方から何かの予防注射をされて、室に入る。三畳位の部屋に十二人。全く身動きも出来ない〇〇島から、〇〇〇しました。

これで帰れる 内地え帰れる。 唯それ丈で満足でした。船は米軍の上陸用舟〇で小さいのでよくゆれましたが 船員さんは皆日本人。何かと慰めて下さり、民話等 皆で習って楽しく暮らしました。

島影の日本

始て島影が見えた時の嬉しさ 五島列島だと云ってゐました。佐世保沖で全員検便。 この中に一人疑わしい人が出て、一週間 沖合に定伯でした。 そして待望の上陸が開始されたのに。
老黒山から避難行を共にした田中さんと云う方がなくなりました。
どんなに残念だった事でせう。 私達が〇〇の掛軸を持ってゐたので僧の資格のある人がお供養されました。
早く早くと急かされ乍ら、こうして七月十日 老黒山を出発して一年一カ月と四日で内地の土を踏む事が出来たのです。二十一年八月十四日佐世保上陸。

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