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再生への原点「引揚港・佐世保(浦頭)を偲ぶ全国の集い」

今回の手記

タイトルのような手記を、原稿用紙6枚を書き終えた後に、たまたま見つけました。佐世保に着いた、という前回の記事とリンクしているようで、このタイミングで書くのがいいと思い、新たな文章を載せます。タイトルにある集いに参加する前に書いたもののようです。

思い出

 広い海にポツンと見えたのは漂流している何か? 目をこらして見る。影がダンダン大きくなって来る。島だ!! 内地の島が見えたと言う絶叫に息をこらして見つめる。ああ帰って来た、日本内地の島が目の前にある。

 日本の国へ帰って来たんだ。涙にうるんだ目には何も見えない。突き上げて来る感激に体が懆える。昭和二十一年八月十四日佐世保港外へ。ここで何日か停泊後上陸。

 追跡する飛行機から逃げ廻った日、移動するトラックの前に跳躍する狼の群、図門駅では民族別に避難先の指示。日系人は受け入れ先無し、途方にくれて立ち尽す私達、だが子供等は立ち眠りしている。各自ベビー毛布を巻き付けてある(八月でも夜中は冷えます)祈る思いで夜明けを待ちました。新京本社へ終結すべく国境を出る時から団結して集団行動を乱さなかった事は、一つの力となった事でもあります。誰一人欠かさず新京本社に集結しました。社宅を与えれてから引揚まで一年。今度は生活の苦労、これは何処に住んでも同じですが、主人は苦労(クーリー)に私は毛糸編物で注文は結構ありました。注文を取ってやるから帰るなとも言ってくれましたが、唯帰りたいとのみ願っていました。

 長女は新京東光小学校に入りました。そして引揚げの話しが出始めると医療技術者は抑留されるからと言うので一切無口の生活です(主人は接骨、私は看護婦)。

 今日本の陸地を目前にして感無量です。様々な思い出が駆けめぐる。上陸開始。陸地を踏んだ感じ、安心感と虚脱感、宿舎までの道の長かった事、暑い重い、目がくらみそうで倒れまいと一心に踏みこらえて宿舎に倒れ込んでしまいました。大人でさえ苦しい長い道を三歳の長男がよくぞ歩いてくれたと思います。内地へ帰り着いた。唯、その喜びをかみしめて歩いた道を再び今歩けるとは、彼の日を再現する為に今度のの集いに参ります。八か月目に入った二男を背に重い荷物を歯をくいしばって歩いた道、日本内地の道、よその国でない祖国の道ですね。

 紆余曲折にたえて今私八十六歳、しっかりと歩き度いものです。生きるという事は堪えるという事なんです。一にも堪え、二にも堪え、堪え切った者がやがて安らぎを得られる。どう堪えるか うつむかないで希望を見つめて堪えるんです。皆が堪えて平和をつかむんです。

 内地への第一歩を印した彼の道変わっていないでしょうね。道は昔のまま歩く私達が変わっているのです。

 昭和二十一年八月十四日佐世保に上陸した初めて歩いた道なんです。言葉にはならない思いを込めてしっかりと歩きます。彼の道を書きたい事が一杯で歩く日を楽しみにしています。

平成十年一月十日


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