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第10章『「経済学の船出」の書評』へのコメント

安冨歩『経済学の船出——創発の海へ』(一月万冊)に対する吉成学人さんの書評へのコメントです。

 『専門分野を持たないで研究する方法』という、2006年公刊の安冨先生の論文があります。

 この中に、

「プロジェクトを推進するうえで重要なことは、目的・計画・責任という概念を放棄することである」     安冨歩. 情報学研究 (70), 173-175, 2006.

とあります。斬新かつ興味深いです。なるほど、一月万冊による『複雑さを生きる』や、『経済学の船出』の復刊は、そういう考えに基づく「プロジェクト」であったか、と思い至りました。

 本書『経済学の船出』で安冨先生が明らかにしたことは、

「共通」の何かを「共有」することで「合意」なり「共通認識」を形成すれば、問題が解決するというような考え方が幻想にすぎない
(経済学の船出,p. 173)

ということであるとされています。

 吉成さんが、

該当書籍が一番批判的に検証しているのが「何かを共有する」と云う発想は西洋独特の思考法である

とご指摘のように、本書で述べられている「共有概念は幻想にすぎない」という発想のベースには、それ以前から、「目的・計画・責任」が、プロジェクトの推進上、無益有害だと感じられたご経験があったものと思います。

 本書『経済学の船出』にて取り上げられている人物の一人であるデカルトは、著書『方法序説』

の冒頭で、

「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」
     ルネ・デカルト『方法序説』,谷川多佳子訳,岩波文庫,1997.

と記しております。しかし、当時の社会にも学歴信仰は存在しており、今なお、良識が各人に均等に配分されていると考えている人は、おそらく限られていると思います。そのようないわば偏見が人間を取り巻いていた社会情勢にあって、良識が各人に均等に分配されていることをデカルトが的確に指摘していたのは、卓見だと思います。

 ただ、神という絶対的存在を前にすれば人間は一人一人が平等なのでしょうが、各人の持つ能力は生まれと育ちによって異なるのですから(性は相近く習いは相遠し)、平等はキリスト教社会特有の概念であって、実際も実は幻想なのかもしれないとの可能性を頭に入れておくことが必要ではないか、と私には思える次第です。

 詳細を承知しておりませんが、平等という概念についても、おそらく哲学者による長年の議論があることでしょう。デカルトが上記のような考えを生み出せたのは、一神教であるキリスト教が支配的であったヨーロッパ地方ならではの思考なのではないかと思ったのですが、いかがでしょうか・・・。

 他方、論語(述而第七)で、孔子

「仁は遠からんや。我仁を欲すれば、斯に仁至る」

と述べており、

安冨先生は、『超訳 論語』の中で、この文を次のように超訳されています。

仁でありたいと思ったらすでに仁だ
仁は遠いものだろうか。いやそうではない。仁は学習過程を開くという態度のことなのだから、私が仁でありたい、と思ったなら、それはもはや仁がここにある、ということだ。
   安冨歩『超訳 論語』,ディスカヴァー・トゥエンティワン,2012.

 東アジアでは必ずしもキリスト教の背景を必要とせずに、誰しもが仁に至ることができるという、いわば人間の平等性が表現されているかのようにも思われます。

 なお、デカルトの生きていた頃は、熱力学第二法則の発見以前ですので、『方法序説』において、熱力学第二法則に矛盾することがそうとは認識されずに記述の一部がされているな・・・、と感じられます。
 安冨先生は、熱力学第二法則を持ち出されて、経済学に存在する根本的な矛盾を指摘しておられます。

「これを要するに、限界効用価値説に依拠するミクロ経済学は、一方で熱力学第二法則を前提しつつ、もう一方で熱力学第二法則を否定する。これは矛盾である」                  (経済学の船出,p. 94)

熱力学を大学で学んだことのある私には、慧眼だな、と思わされます。

 さて、本書『経済学の船出』では、ホイヘンスが振り子(時計)の同期現象を発見し、それがスピノザ『エチカ』の内容に影響を与えているかもしれないとの発見について、述べられています。

 当時は、自然科学と哲学との間に線を引くという意識が、今ほどには強くなかったのでしょう。自然科学的な探究を日々行って、そこから得られた知見を哲学的な思索にもフィードバックさせるということができていたのが当時の在り方で、現在は、専門家は専門領域ごとに区切られてしまい、自然科学者が哲学的思索に時間を使うことは、あまりないようです。自分の専門分野しか研究しないことは、本来は不自然なことだと自覚する必要がありそうです。安冨先生が、馬との生活をさまざまな思索に取り込んでいるのは、そうした実践なのでは、という気がします。つまり、自然科学者は哲学的思索もしてこその存在であって、哲学的思索をしない自然科学者は、いわゆる「専門家」なのでしょう。

 また、『経済学の船出』ではまだほとんど取り上げられていないですが、親鸞の教えもまた、東大話法を使用する立場主義者たちによる欺瞞に満ちた世界を生きていくための縁であることが、すぐのちの安冨先生の講演において、主張されているところです。安冨先生は、『現代と親鸞の研究会:研究活動報告』で、次のように講話されています(『親鸞の思想とハラスメント』)。

『複雑さを生きる』(岩波書店)、『ハラスメントは連鎖する』(光文社)、『生きるための経済学』(NHK ブックス)という三つの本を書き、近刊の『経済学の船出-創発の海へ-』(NTT 出版)とあわせて、大体一つまとまり始めたと考えています。
(中略)そのように考えるなかで、もう一人、私が非常に関心をもったのが親鸞です。(中略)親鸞が言っていることも、結局そういうことではないかと思うのです。つまり、自分自身のあり方に立ち帰り、それを肯定する。その肯定する根拠は何かということが親鸞の思想のすごいところだと思うのです。阿弥陀にすがればいいのだと。これはものすごく過激なアイデアだと思います。
安冨歩.親鸞の思想とハラスメント.現代と親鸞,第22号,親鸞仏教センター,p. 101-103 (2011).

 インタビューでは、次のように答えておられます。

幸せに生きるとは、自分に起こるさまざまな出来事をきちんと丁寧に受け止められるということだと思います。それが他力に生きるということです。「流れにまかせる」事とは違います。
 安冨歩,親鸞ルネサンス㊦他力に生きる~東大話法を越えて~ (2014)

 その後しばらくして、2019年に行われた浩志会における講演会においても、安冨先生親鸞の思想を、改めて紹介されています。

10 年ほど前に、世の中が狂っていると思ったときに、どうしたらよいのかというのが自分にとって大問題でした。最初は立派な人になろうとしました。でも、ちゃんとした人間になろうと努力したら、もっと嫌な奴になってしまいました。理由は簡単で、自分はちゃんとした人間になろうとしているという事実が、他人を見下すことに繋がったからです。そうすると益々嫌な奴になるという悪循環に陥りました。その時に、これを「自力」というのではないかと思い、「他力」を唱えていた親鸞を勉強する事にしました。
南無阿弥陀仏というのは、自分で自分を良くしようといったような努力を一切放棄するというものです。それで阿弥陀如来にすがるというものです。頑張らない。ただ流されるという事が大事であると思うようになりました。
                   2019年 浩志会 4月度月例会講演録

 ここで、親鸞思想をめぐる安冨先生の思考に、

「流れにまかせる」事とは違います。(2014)
 ↓
ただ流されるという事が大事であると思うようになりました。(2019)

という変化(?)が起こっていると、見えなくもありません。興味深いです。一貫していながらも、フィードバックを通じた学習過程が開かれている安冨先生ならではの変化ではないか、と思われます。

 一度は絶版になった本書が一月万冊から復刊され、私や吉成さんや、その他多くの新たな読者に読まれることになり、この「note」という場を通じて、新たなコミュニケーションが生み出されています。『経済学の船出』を出版された当時と、その後の安冨先生の思想を比べつつ、その遍歴を辿ることも、容易になりました。安冨先生の思想が、これからも、人々の中で生きるための『経済学の船出』の再出発がなされたのがこの度の復刊である、ということになるでしょう。

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