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国立国会図書館に墓を建てる

「父さんが死んだら墓石は変な形にしてほしい」

私が小さいころ,石材屋の横を車で通り過ぎながら父が言ったのを今でも覚えている。たぶんそれが,弔いに対する価値観の基礎になっているのかもしれない。

墓は何のためにあるのか。
供養とか先祖との繋がりを保つとか,いろいろな説明があるんだろうけど,人が存在したことを証明するためというのが本質だと思っている。

少しエゴを含めた言い方をすると,自分が存在したことを証明できないのが怖いから,他人の存在証明として墓を作る。そうすれば自分が死んだときも誰かが証明してくれるだろうと,そんなことなのかもしれない。

それならば石とか木じゃなくてもよくないか?


ところで先日,博士後期課程を修了し,はれて博士(学術)を授与された。

博士課程では学位授与後,博士論文が国立国会図書館に納本される。国立国会図書館曰く「可能な限り永く保存」される。


お墓の話に戻る,というか本題に入る。

近年の社会問題に無縁墓というものがある。継承者がおらず,管理されなくなってしまったお墓が増えているらしい。

さて博論はどうだろうか。
国立国会図書館に所蔵されれば管理は図書館がやってくれる,図書館やデータベースが消えない限り,著者が存在したことは証明される。ついでに言えばお参りもCiNiiでできてしまう(永代供養なんてのはさておき)。

これに気づいたのD1の自分はこう思った。

「博論もはや墓じゃん??」

それからは
国立国会図書館に墓を建てる
ことを博論執筆のモチベーションにした。

ちなみに周りの人にこれを言うと「えぇ…」みたいな反応ばかりで,良くても「うん,まあ確かに…いや違うだろ!」という感じ。話の筋は通ってると思うんですけどね。


以上,いち院生の博論に対するモチベというかイメージを紹介した。

博士課程を修了し,自分の"変な形の墓"は建てることができた。今度はどうやって生きた証を残していこうかな。

他の院生や先生方はどんなイメージを持っているのかも是非聞いてみたい。


博士号取ってないそこの君!
博士号とろうぜ!(墓立てようぜ!)


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