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「ワクワクな浪江町の私」~2022年を迎えて~

 明けましておめでとうございます。
 昨年は、大きな転機の年になりました。福島県浪江町で生きていくと決め、1月から住居を借り、4月1日に住民票も移して完全移住、1年間をほぼ浪江町で過ごしました。
 あの原発事故が起きて、約2万1千人が住んでいた浪江町は全町避難となり、2017年4月に約20%のエリアが避難指示解除、現在の居住人口は約1800人です。
 震災以来の除染活動や瓦礫撤去、伐採・草刈り、そして、コミュニティ再生、まちづくり活動といったこれまでの測り知れない努力のおかげで、私は今、この浪江町で何不自由のない生活を送っています。

浪江町になぜ移住したのか

 浪江町で生きていくことを決めた理由は大きく言うと二つ。「責任」と「ワクワク」です。
 あの原発事故は、日本国民の意思決定の積み重ねの帰結。ましてや自分は国の公共政策を担う公務員の一人でした。さらに、あの福島第一原発で作られた電力が送られていた先は東京。私が住んでいた町。東京の繁栄を支えるために作られていた電力でした。あの事故から生じた様々な問題は「福島の問題」ではない。むしろ一義的には「東京の問題」ではないか。であれば、自分事として、自分の責任として、福島12市町村の再生に関わりたい。それが一つの理由でした。
 ただ、実際に移住すると、もう一つの理由、「ワクワク」がより大きくなりました。移住前に出会った浪江のまちづくりに携わる方々は、みなさん、楽しみながらアイディアを実行に移していました。とても前向きでオープンで、チャレンジ精神に溢れていました。そんな姿に、自分もこの人たちとこの町で、コミュニティを再生し、ワクワクを産み出すことに一緒にチャレンジしたいと思いました。この町に住み、より多くの町の方々に会っても、前向きでオープンな方々ばかりで、みな自分事としてまちづくりに取り組んでいます。ここから、お上(おかみ)依存でなく、自分たちの足で立つ町、新しい自治の在り方を創れるのではないかと、ワクワクは増すばかりです。

浪江町で何をやっているのか

 今、この町に住みながら、4つの仕事をしています。
 一つは、これまで10年間続けてきた、「東の食の会」としての食産業の仕事を、浪江町をはじめ、この福島県浜通り地域で実践していくこと。農業者・漁業者が付加価値を川上に取り戻すためのマーケティング・ブートキャンプを浪江で開催。
 ヒット商品を産み出すため、地元「鈴木酒造」の酒粕を使ったお菓子「純粕美珠(じゅんぱくびーず)」や、相馬藩主が絞った牛乳で作る「殿様プリン」をプロデュース。(購入はこちらから。)
 さらに、ここでみんなが関わりながら新しい作物を作り、ファンを作り、コミュニティを作るためのコミュニティ実験農場「なみえ星降る農園」を開園しました。今は、まだ土づくりの段階ですが、そこからみんなが関われる実験を始めようと、肥料として海星(ヒトデ)を畑に撒いています。(ヒトデは土壌改良とともに、地方の農業の最大の課題であるイノシシなどの害獣が嫌がる匂いを出す忌避効果もあることがわかっています。)

 もう一つは、福島県浜通り地域の課題解決ビジネス創りとまちづくりを行う「NoMAラボ」。今は、買物に困難を抱える人が家にいたまま簡単に買い物を楽しめるVR買い物支援サービスの実証実験を南相馬市で行っています。まちづくりでは、浪江町の住民の皆さんの思い出と住民が創りたい浪江町の将来の姿を壁画アートにして町中に掲出していく「なみえアートプロジェクト」に取り組んでいます。

 加えて、オイシックス・ラ・大地株式会社のグローバル担当専門役員として、日本の食の輸出事業に取り組んでおり、昨年から香港・中国に加えて、シンガポールへの野菜・果物の輸出も開始しました。
 さらに、米国のヴィーガン・ミールキットのサブスクリプション「Purple Carrot」(Three Limes Inc.社)の社外取締役を担っています。

 福島の浪江町に住み、地域の課題解決やまちづくり、ビジネスづくりをしながら、海外への輸出事業や、海外の企業の経営に参画することができる時代になりました。

浪江町でどんな未来をつくりたいのか

 昨年は、この町の皆さんに快く受け入れて頂き、楽しく充実した生活を送らせてもらいました。隣の原発立地、双葉町にはいまだ住民が住んでいない中で、ここでこのような暮らしを営んでいること自体が奇跡的なこと。それはこの町の方々のこれまでの筆舌に尽くしがたい苦難と努力の上にあるものです。自分は、今はまだただの受益者ですが、この町の再生、コミュニティの再生に貢献したいという想いが日に日に増しています。
 この町のまちづくりに貢献する上で、まず今年は、町外・県外にいる方も含めて、より多くの浪江の方々にお会いし、話をお聞きしたいと思います。今、浪江町では、官民挙げて様々な新しいチャレンジに取り組んでいることで、企業からも注目が集まり、若い移住者も増えてきました。これから益々注目され、新しい人も移住してくるでしょう。これは素晴らしいことですし、私も様々な企みを仕掛けていくつもりです。一方で、もともとこの町に住んでいた方々がいまだ10%も帰還していない中で、全く新たな人たちが全く新たな取組をしていった先にある全く新たな町は、もはや「浪江町」なのか、というモヤモヤがあります。浪江町の歴史と伝統・文化、この町に住んできた方々の記憶や思い出の上に、新しい浪江町が創られるべき。そのために、まず自分自身が、浪江町の歴史、伝統・文化を勉強し、できるだけ多くの浪江の方々の記憶や思い出を聞き、追体験し、よそ者の視点でその価値を再発見し、発信・伝達して、次世代に繋いでいきたいと思います。
 その上で、その浪江町の歴史・伝統・文化・記憶の上に立って、この浪江町の方々と共に、ワクワクする新しいチャレンジに挑んでいきたい。そんな浪江の遺産に基づいた、浪江の方々が中心のまちづくりの先にこの町の未来があり、この町が、最も当事者性が高く、最も幸福度の高い町として、「ワクワク戦国時代」* を牽引するイメージを描いています。そして、それは、江戸、明治を経て一直線に進められてきた、地方から東京への人の移動による一極集中と富の偏在、お上(おかみ)依存の社会構造を逆回転させるモデルケースになるはず。あの原発事故が起きた地域だからこそ、ここから、中央集権型社会から自律分散型社会への流れを創っていく。そんなことを考えながら、今年もこの浪江町で、ワクワクの種とヒトデを撒きたいと思います。

*昨年、福島最大の新聞、福島民報の「民報サロン」に計6回寄稿させていただき、その最後に「ワクワク戦国時代到来」について書かせていただきました。お時間のある時に御笑覧ください。

第1回:「なぜ浪江を選んだのか

第2回:「安全は科学、安心は人

第3回:「関係資本を溜め込もう

第4回:「地方から無数の企てを

第5回:「形式よりも、人間を。

第6回:「ワクワク戦国時代到来


*写真は、昨年の、なみえ創成小中学校での運動会の様子です。まだ数少ない子供たちの運動会を町ぐるみで作り、見守る様子が素敵でした。


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