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『形式よりも、人間を。』(福島民報「民報サロン」2021年12月3日寄稿)

 十四年前、九年勤めた外務省を辞めた。外交の仕事はやりがいがあり、外務省には尊敬できる方が多かったが、退職を選んだ一つの理由は「国会答弁作成作業」。議員から事前通告される質問に対して総理や大臣の答弁を官僚が準備する作業だ。
 一問一問についての答弁、さらにその答弁に対して想定される質問(「更問」)への答弁を、「てにをは」まで一言一句、法的整合性、過去の答弁との整合性、政治的状況などを考えて作文し、関係省庁関係各課全てと調整し合意を得る、という気が遠くなる作業。関係する質問が通告されると徹夜は必至。それが連日続く。
 この国の未来をかけた政策論争であればやりがいもあるが、国会質問の多くが、法案をとにかく阻止するためか、法案と無関係に失言を引き出し政局にするためか、地元での得点稼ぎのために行われている。官僚の側も、法案成立や政権運営にみそをつけないよう、これまでの答弁と矛盾しないこと、言質を取られないことを最優先に、実質的な政策論争を避けるための形式的な答弁を作成する。要するに、今の国会答弁は壮大な形式的儀式だ。その壮大な形式的儀式のための膨大な形式的作業に、この国を支えようと希望に燃えていた有為な人材が毎晩浪費され、疲弊し、失望し、役所を去ってしまう。
 この国の中央集権型社会を象徴するように、議会答弁の形式は地方にも移植され、都道府県、市町村の議会でも基本的に同じことが行われている。官僚だけではない。幼稚園の「マエヘナラエ」に始まり、学校では前髪の長さやタイツの色を決められ、選択肢から正解を一つ選ぶ勉強を詰め込み、就職をすれば割印・捨印を押して、「偉い人」の通り一遍の「ご挨拶」を作文し、登壇の順番を決め、席次を決め…。形式主義が、前例主義、権威主義と相まって、ゆりかごから墓場まで日本社会の隅々にまではびこっている。

 これにはそうなる理由がある。形式主義は前例にならうので創意工夫やアイディアを必要としない。新しいことをやろうとすれば、「うまくいかなかったらどうする」「リスクが完全には排除されない」という声にあらがう責任が生じる。前例を踏襲し続けること、創意工夫やアイディアを封殺することで実質的な利益が失われても、責任を問われることはない。そのため皆、場面、場面で実質より形式を選ぶ。そうして結局、すべてが形式主義に陥っていく。
 あらゆる形式やルールは、もともと人間のために作られたもののはず。それがいつのまにか目的化し、人間よりも形式やルールが優先される。
 人間の数が減っているこの国に、もうそんな余裕はない。特に地方には人間が必要だ。形式よりも人間を、前例よりも創意工夫やアイディアを大事にして、コミュニティに活力を取り戻す。それが地域の暮らしを、大事な里山、里海を守ることにつながる。
 福島で起きた悲劇も形式主義の帰結とも言える。ならば、この地から変えたい。ルールを偏重する形式的な中央集権型社会から、人間を大事にする実質的な自律分散型社会へ。形式からの解放を地方から、福島から、始めよう。


*この記事は、福島民報「民報サロン」(2021年12月3日)に寄稿したものです。

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