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Noteは「相対的需要」か「絶対的需要」か

あなたは私の記事を前後の記事のタイトルと比較して選んでくれたのか。それともスポットで「これだ」と直感でタップしてくれたのか。

Noteを5日間続けてみて、少し振り返っていきたいと思う。しかし、自身の記事に関する内省というよりは (1)「Note における需要とは何か」と(2)「その需要をみることは可能か」の二点に着目して思考探索していくううう!

私のNoteに需要はあるのか?あったとしてその需要を満たせているのか

5日間続け16記事書いた結果

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View→ Like Conversion Rate が約8.36% (128 #Like /1531 #View ) 果たしてこの数値は良いのか

何となく低いように感じるが、少しデータが少ない為なんとも言えない

他のライターのViewとLike数の平均値、中央値、最頻値、それらの分布等の統計的データがあったらより相対的にこの値を評価することができるのだが。

確かなのは、この値は0%*でもなく100%でもない。つまり、一定数の方がView → Likeというアクションをしてくださったという事実はある。

*(この表現が適切なのか議論の余地もあるが...0%とはそもそもあるのか。0なのに何もないのにそれは%として表現して良いのか)

では、一旦この変換率が低かったと仮定して何が要因なのか

1. 期待以下の記事だった 

これはネガティブに捉えるならば「内容が予想していた物ではなかった」であるが逆に「単にタイトルと最初の文章がキャッチーで良すぎた」というポジティブな捉え方も可能である。一つ目だとしたら単に「需要の不一致」なのか。だとしたらタグ付けが悪かったのか。タイトルがミスリィーディングだったのか。そもそもそこに需要がなかったのか。

2. 単に"Like" を付ける習慣がない

果たしてどれくらいのユーザーが良かったと思う記事に "Like"をつけているのだろうか。Likeをつけてもつけなくてもユーザー側にとってはあまり違いがないのではないだろうか。だとしたら記事を書いた方へ「すき」を伝える行為の「インセンティブ」はどこにあるのだろうか。ライターの努力への謝意か。逆に伝えない人は単にツンデレなのかシャイなのか(謝意だけに)

3. そもそも view→likeとしているが因果関係がないなんてことはないだろうか

例えば like→ viewの方向にアクションを取った人がいたりlikeはしたけど実際はviewしていない人がいたりするのではないだろうか。


もう少し深く考える

そもそもNoteにおける「需要」とは何か

一般的な経済学においてはアダムさんの「需要と供給」のグラフの縦軸横軸から分かるように完全競争市場においてQuantity (量)とPrice (価格)に着目して「需要と供給」の関係を示している。しかしNoteの記事供給に関しては「価格」というシグナルがない場合が多い。

さらに、例えばこの記事の場合、「#ビジネス分析」というタグの市場で同様の記事と競争している。同様に「#考察コラム」というタグによって構成された市場においても似たような記事とviewを取り合っている。では何だろうか。私はいくつもの市場で別の競争をしているのだろうか。

それは、私の記事だけでなく他の記事においても言えることだろう。そうだとしたら、各ライターがそれぞれのタグでの人気度を総合的に考慮して次の記事を書く為、それぞれの市場がお互いに作用し合い交差しあっていると言えるのではないだろうか。

しかしどうだろうか似たような記事は「substitutable (代替品)」なのか。それとも「complementary(補足物)」なのだろうか。言い換えるならば、私の記事を読んだ後、あなたは似たような記事をさらに読みたいと思うのか。それとも今度は別のトピックを探しに行くのか。

違う視点から考えるならば、

私の記事に対する需要は「相対的需要」か「絶対的需要」

先述したよう、あなたは私の記事を前後の記事のタイトルと比較して選んでくれたのか。それともスポットで「これだ」と直感でタップしてくれたのか。

さらにはその「需要」というものは「時間」や「空間」において収縮するのか?

短期的需要か長期的需要か ちょっと見たいと「瞬間的に」思い読み始めたのか。それとも「ずっと」読みたいと思ってついに私の記事を見つけたのだろうか。

別の「時間」の観点から、もしあなたのこの記事に対する「需要」は「休日のゆったりとした時間」に見つけた場合と平日の仕事前の朝の慌ただしい時に見つけた場合では違うのでないのか。

「空間」はどうだろうか。この場合空間はあなたのスクリーン上の「オンライン空間」なのか物理的な「空間」なのか。家にいて読み始めたのか。通勤電車で読み始めたのか。この記事と並行して開かれている他のサイトは何なのか。ヤフーニュースか仕事関連のサイトかYoutubeのエンタメ動画か。

ここまで書いて気づいたのだが恰も需要が外部からだと仮定して私は話を進めていた。しかしながらこの記事を書くことで私自身の内的需要なり欲求を満しているのであれば それはそれでいいのでないだろうか

*以上、上記全ては学術的な内容ではなくただの私の戯言であること承知して頂きたい。

読んでくださった方へ「私はあなたの需要が見たい」(欲張り)

次回は下記のいずれかを書いていきたい 需要があるならば。しかしながら私は分からない。何に対して需要があるのか。よって私はあなたの需要が見たい...(少しでも気になった方はコメントに残して欲しい...) 

(1)「空気は何円か」「高所得者の吸っている空気はより高いのか」

- ライブに行った時の「雰囲気」に私たちが払う値段は果たしていくらなのか

「新鮮な空気が吸いたい」という欲望に対して私たちは果たしていくら払える

Social Externality (外部性)の議論と交えて

(2) マンマ・ミーア!がフュージョンした瞬間

-昨日私の頭の中でライオンキングの歌にマンマ・ミーア!のリズムが急に融合した瞬間についての考察 

(3) 1+1=1であると信じていた小1の話

-私が小1の時どうしても「走って体育館の壁を一回タッチして帰ってくる」ということができなかった話 だって私が壁に触れることはすでに 私→壁 壁→私の「2」であり「一回」が不可能ではと考えたやつ 仏教の「縁起」の話と交じえて話たい


読んでくれてありがとうございました🐰

私とても嬉しい あなたに読んでもらえて 

ツンデレな方へ:もしあなたの需要にあったのならばここは一つ"Like"してみてもらいたい





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