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長編『その名はカフカ』について長めの独り言(2023年12月現在)

 今年一月中旬に公開した短編を皮切りに11月末まで約十ヶ月をかけて連載を続けていた長編小説『その名はカフカ』。本記事は『その名はカフカ』に関する2023年12月時点での自分の細々した気持ちを書き留めておく目的で執筆するため、きっと他人が読んでも面白いものにはならないし、まとまりのない文章の羅列になることと思う。では書かなければ良いではないかと思われるかもしれないが、ヒトは忘れる動物である。私は妙に(ときに無駄に)記憶力の良い人間ではあるが、それでも今までの人生のある時点で湧き起った感情、心情などと言ったものはきっと忘れていることも多いであろうし、「思い出せない」ことは「思い出さない」わけであって、忘れていること自体も忘れていることを意味する。私はそういった後々忘れてしまうであろう自分の『その名はカフカ』に対する現時点での感情を、それを忘れてしまった頃の自分に向けて書いておくことにした。自分のためだけに書くというのなら公開しないでおけば良いのかもしれないが、「読む人がいるかもしれない」という緊張感がなければ締まりのない文章となり、未来の自分が読んでも理解できないものに仕上がることを憂いて、このような形で残しておくことにした。
 もし本記事のあまりに個人的な独り言にお付き合いいただける方がいらっしゃるならば、もちろん嬉しい。また、小説の話の展開に直接触れるものではないため、この記事で初めて『その名はカフカ』に出会い、これから読んでみようと思ってくださった方にも安心して目を通していただけるのではないかと思う。
 小説のほうを今すぐ読んでみようという方がいらっしゃれば、以下の三つのマガジンに収まっているので、順にお読みいただきたい。


なぜ書き始めたのか

 なぜ長編小説を書き始めたのか。これに関しては複数の場でお話しさせていただいているので、一部の方には余計な内容かもしれないが、やはり一度まとめて書き残しておきたい。
 そもそものきっかけは、鳥との出会いである。2022年10月、私は頻繁に利用しているプラハ市内のとあるトラムの停車駅で、美しい鳥と出会った。昨年の秋の時点で私は既に二十年、チェコ共和国に住んでいたことになる。しかしその二十年間、その鳥に気が付くことはなかった。街中で見る鳥はすべて同じ、くらいに思っていたのだろう。「興味を持つ」ということが人に目を開かせるのだということを改めて認識した瞬間だった。
 その顔の辺りから体にかけてのグレーの色合いがあまりに美しく、射るような目付きをした鴉の姿をカメラに納め、鳥の名前を検索できるアプリにかけて、その鳥の名がチェコ語名「kavka obecná」、日本語名「ニシコクマルガラス」であることを知った。日本では見られない種であるらしい。ちなみに鳥に特別興味がなければチェコ人でも「kavkaが鳥であることは知っているけど、どんな鳥かは知らない」という反応をする人が多い。
 ニシコクマルガラスに出会って、やはり最初に思ったのは「描いてみたい」、であった。その頃私は何度か、私に鳥世界への扉を開いてくださった橘鶫さんに「描きたいカラスがいるんです」とコメントを残している。その様子はあたかも親友に「好きな人がいるの」と打ち明けるティーンエイジャーのようであった。しかしこの鳥との出会いは私の中で「描きたい」だけに留まらない妄想を掻き立てた。
 チェコ語において、無声音「k」の前に来る有声音「v」は無声音化するため発音は「f」と同じ音になる。つまり鳥の名である「kavka」は作家のフランツ・カフカの「Kafka」と全く同じ読み方となる。そこに、ドラマを感じてしまった。何とかこの二者のカフカを絡めてお話が書けないか、こんなに惚れ込んだ鳥なのだから、単に短編に留めず中編くらいにはならないか。そんな気持ちになってはいたものの、その時点で私が書いたことがあるのは数本の短編ばかり。映画学部の学生であった頃は自分の作品の脚本も自分で書いたものではあったが、それもすべて短編である。長編小説の連載などと言うのは、自分のやることではないと思っていた。
 そして年が明けて2023年一月。ピリカさんから「挑戦」というテーマで新年一本目のピリカ文庫への寄稿のご依頼をいただいた(めろさんと同時発表なのだから一本目であると同時に二本目でもある)。ピリカ文庫へ向けて書き始めようとアイデアを練り始めた時点では、私の中でくすぶっていた「カフカネタ」を使うつもりではなかった。グランプリと違って字数制限はほぼないピリカ文庫ではあるが、カフカはもっと長期的に使えるように取っておきたい、そんな気持ちがあった。しかし元来、複数の事柄を同時進行できない性分である私に、カフカに気を取られながら他のストーリーをひねり出すのは無理な相談であった。そうして書き上がったのがピリカ文庫へ寄稿した短編『その名はカフカ』だった。

 この短編に、まるで私の「カフカを長めのお話にしたい」という思いを汲み取ってくださったかのように、複数の方が「続きが読みたい」とコメントを残してくださり、二月初旬、同じタイトルに「Preludium(前奏曲)」という副題を付けて連載を始めた。

PreludiumとKontrapunkt

 今読み返してみると、第一部Preludiumは、かなり手探りで書いていたなと思う(今まで各副題を「章」と呼んでいたが、長さ的に「部」のほうが適切な気がするので、ここからは「部」とする)。第一部は全部で14話、執筆期間は二月上旬から五月上旬である。第一部の解説記事でも書いたが、先に書きたい場面というものが複数あり、その場面と場面を繋ぐような、行き当たりばったりの書き方だった。今見ると話の流れに随分と「穴」がある。「前奏曲」の名にふさわしく、自分にとっても長編執筆の世界への導入部分だった気がする。
 それでも第一部を書き始めた時点から『その名はカフカ』でやりたいこと、というのには明確なヴィジョンがあり、それが詰まっているのが第二部「Kontrapunkt(対位法)」である。Preludiumを読了した方にはぜひKontrapunktにも目を通していただきたいと思ってはいるが、強制はできない。Preludiumで飽きてしまった方がいても当然だと思う。
 第二部では執筆のスピードが上がり、全22話を五月下旬から八月上旬の間に書き上げている。一回の話の文字数も上がっているので、第一部の三倍くらいの速さではなかったかと思う。
 Kontrapunktには私がカフカでやろうとしたことは全て詰め込んだ。そこで完結してもいいとは思ったのだが、どうも私は長編を書く楽しさに味を占めてしまったらしい。その後すぐ番外編を一本書き、それから第三部の第一話まで書き始めた。しかし、第二部でカフカでやりたかったことを使い果たした私は「自分は第三部で何がしたいのか」が分かっていなかった。そして、連載を続ける自信のなかった私は第一話の公開を九月中旬まで待つことにした。

Disonance

 第三部には「Disonance(不協和音)」という副題を付けた。第三部を読まれた方にどこまで「不協和音」が伝わったのかは分からない。Kontrapunktでカフカ自体でやりたいことは使い果たしても、Disonanceがどのような結末になるのかは最初から見えていた。「話の結末が見えていてもこの話で何をしたいのかは分かっていなかった」というのは矛盾しているように聞こえると思うが、Disonanceを書き始めた時の私の心の中の状態はまさにそんな感じだった。第三部において、途中で思いついて付け加えたエピソードというのも、ほぼない。ただ、肝心のクライマックスの舞台がどこになるのか、どうして彼らがそこにいるのか、がかなり直前になるまで決まっておらず、最終的に何とか収まってほっとしている。
 Disonanceの第二話は九月上旬の日本滞在中に書き、チェコに戻って来た時点で第三話の半分くらいは書けていた。そうやって公開前に下書きがたまった状態で連載を始めたせいか、第二部までは「書き上がったらすぐ公開」というスタイルだったのが、第三部は常に二、三話完成した下書きがある状態で投稿していく形となった。最終話である第23話を書き終えたのは11月18日だったが、公開はその十日後だった。

なぜ完結しないのか

 第二部で終わっておけばよかったものを、第三部を書いたことで話が余計に広がってしまった。「書ききっていない部分」というのが増えた、もしくはそういった部分が目立ってきた気がする。
 実は気持ちの70%くらい、第三部を書き終えた時点で完結させるつもりだった。そこで最終話の終わりに「完」と書いたが、未練がましく「prozatím(今のところ、差し当たり、くらいの意)」と付け加えておいた。いつ気が変わるか分からない、という思いから。しかし、ここで終わらせておくべきではないか、という気持ちは強かった。第二部の解説記事でも書いたように、私は「無駄な続編」が嫌いである。既に第三部を「大きな番外編」のつもりで書いていた節もある。ところが最終話投稿後、欠かさず読み続けてくださっていた方々から続編を期待される温かいコメントをいただき、ぐらぐら揺れ始めた私の心は穂音さんにいただいたコメントでどんと「続編を書く」ほうへ倒れてしまった。本当にありがたいことである。
 しかしここで一度、「なぜ終わろうと思ったのか」についても書き残しておきたい。
 一つは、「あまりに自分を入れすぎた」ことにある。カフカの登場人物に私という人間を100%反映した人物はいない。しかし主人公には私がこれまでの人生において消化できなかったものをかなりの量で被ってもらった(被ってもらえば消化できるかと思ったが、そういうわけでもないらしい。が、これはまた別の話)。そして話の中には、今までの人生で見たこと聞いたこと、好きなもの(こと)嫌いなもの(こと)を大量に注ぎ込んである。こうなってくると、どうも気恥ずかしい。かなりの部分が創作なのだから、誰にもどこに私が潜んでいるのかは分からないはずなのだが、やはり何となく照れくさい。
 次に、「こんな話を書いていると、物事の捉え方や考え方が血なまぐさくなる」ということが上げられる。世界には悲惨な出来事、残酷な事件、理不尽な戦争が溢れているというのにこのようなものを書いていて良いのか、という思いも常につきまとう。そして、この話を書くにあたって普段読まないような本や資料にも目を通した。勉強にはなったが、私が普段欲している知識ではないものがほとんどだ。カフカを書いていると、このような学習が日常の一部になってくる。それが自分にとって良いことなのかどうか判断がつかない。
 それから、「恐ろしく論理的な思考回路になる」ということも上げておきたい。普段私は絵を描いたり物事を判断するのにとても抽象的な感覚に従うことが多い。良い判断ができるかどうかは別として、そういった抽象的なものの見方がイメージを描き出すことだったり、印象を言語表現に置き換えることに役立っているのではないかと思う。それが長編小説を書いていると「どの伏線をどのように回収するか」というロジカルな思考回路に切り替わり、それが普段の別の行為にも反映されてくる気がする。複数のことを同時進行できない私であるが故、なのかもしれない。
 そしてカフカを終わらせようとした最大の理由として、「長編を書くことに慣れてしまった」という恐ろしい事実がある。私にとって「慣れ」ほど危険なものはない。Preludiumを書き始めた頃は数日かけて一話を書いていたのに、Disonanceを書いている期間は、noteを開いた途端、小一時間の間に数千字書いて一話を仕上げる、ということを割と苦もなく続けていた。長編を書き始めた頃の新鮮味がなくなってしまった気がする。
 私があまりに一定期間集中し夢中になりすぎて続けられなくなったものの代表として、アクリル絵の具という画材がある。その頃の心理状態や苦い思い出も手伝って、再び使い始めるのに未だに躊躇してしまう。
 今、あえて長編執筆から距離を置いてみれば、「慣れきってしまって続けられない」状況は避けられる気がする。

『その名はカフカ』のこれから

 第四部は、いつか書くと思う。いつになるのかは分からない。フランツ・カフカの没後百年で世が騒ぐであろう2024年の六月ごろまで何も書かなかったら永遠に書かない、という宣言でもしてみようかと思ったが、私のカフカはフランツ・カフカとはあまり関係がない。意味のなさそうな宣言である。
 とにかく、今すぐ第四部を書き始めたら、話の展開が同じようなパターンにはまりそうで怖い。きっと然るべき続編というのは絶妙なタイミングで自分のところに降って来るのだろうと思う。その時はぜひ書きたいし、またお付き合いしてくれる読者の方がいらっしゃったらそんな嬉しいことはない。
 そして、こんな長編を書いたのだから本にするなり電子書籍にするなりしてまとめたらどうか、という気持ちも第二部を書き終えた頃にはあったが、現時点ではやはりやめておいたほうがいい気がしている。いくらフィクションだと主張しても、扱っている題材からして何らかの批判、非難等を受ける可能性が予想され、それなりに覚悟をしておかなければならない気がするからだ。そんな面倒が出てくる心配があるのなら、やはり『その名はカフカ』は「ネット上の素人の妄想」に留めておくべきなのだと思う。

おわりに

 ひゃっほう!ここまでで既に5500字超えていますが、こんなカフカ一本分の長さの独白について来られた方、いらっしゃったりします? 
 ともあれ、『その名はカフカ』は私にとって2023年の最大の挑戦であったのだと思っています。ピリカ文庫のお話をいただいた時のお題が「挑戦」だったのは、実はその時の自分には予期し得なかった深い意味があったのでは。
 もちろん今年はnote上でも私なんぞの妄想小説よりももっと大掛かりな企画に参加させていただいたし、現実世界でも様々な仕事に携わらせていただきました。それでも、自分一人で何の益も目的とせず手掛けたことの中では、この長編連載は私にとっての今年の最大イベントだったんだと思っています。
 これから先、カフカの続編を書いたとしても、全然別の長編小説を書いたとしても、この2023年の挑戦は、まるで熱に浮かされていたような、摩訶不思議な印象を自分の中に残していくのだと思います。


【余談】
最近「noteでは改行や行間の少ない文字ツメツメの文章は読みたがる人が少ない」と聞いたので、本記事はわざとツメツメで始めてみましたよ!
お気づきになりました?ふふふ。



『Modrošedá obloha』 Agave (Hahnemühle) 21,5 x 30 cm 水彩


【2024年春 追記】
この記事で「本にはしない宣言」をしていた私ですが、年が明けた2024年一月に第一部と第二部をまとめた本を作りました。

第四部は2024年二月から四月にかけて連載しました。


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。