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その名はカフカ IV

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長編小説『その名はカフカ』収納箱その④です、その③はこちら→https://note.com/dinor1980/m/m036e5e244740
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果てなき森にて深夜、海を拾う。

 足が沈みこんで動きが取れなくなったのは一瞬前のことかもしれないし、もう昨日のことかもしれない。既に何年もこうしているのかもしれないし、もしかすると自分はこの泥水の中で生まれてこれまでの人生をここで過ごしてきたのかもしれない。  いや、ここで生まれた、ということはないだろう。そうでなければ、今このざらざらどろどろした泥水が目を塞ぎ鼻を塞ぎ耳を塞ぎ口の中に侵入してきたことに不快感を覚えるはずがないではないか。  どうしてこう、人間の体には穴が多いのだろう。おかげで液状の物質は自

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その名はカフカ Prolog その名はカフカ 第一部第一話 その名はカフカ 第二部第一話 その名はカフカ 第三部第一話 その名はカフカ 第三部最終話 2014年9月リュブリャーナ  三ヶ月ほど前から急激に従業員が減り始めた組織の建物の中は閑散としていた。長年使い続けた本拠地を失うのは惜しかったが、こんな大きな建物を保てるほどの経済力は、今のイリヤの組織にはない。イリヤはため息と共に煙を吐き出すとタバコの火を揉み消し、別室に待たせてある来客の元へ向かうべく重い腰を上げ、自室

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その名はカフカ Modulace 1 2014年10月ガラツィ郊外  モルドヴァとの国境近くに位置するルーマニア東部の街ガラツィ郊外のうっそうとした森の中にある武器弾薬貯蔵庫の前の簡易な詰所でオレグが時間を確かめたのは午後八時半を回った頃だった。詰所の中は折り畳み椅子が二脚と一辺が一メートルもないくらいの真四角のテーブルが置いてあるだけだ。それでも他には何も入らないくらいの大きさの、小屋と言っても過言ではないような造りの詰所だが、安全がほぼ百パーセント保障されているこの貯

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その名はカフカ Modulace 2 2014年10月プラハ  まるでクリスマスが焦って登場のタイミングを間違えたかのような感覚を覚えながら、レンカは卓上の幾種類もの茶菓子を並べた大皿を見つめていた。同時に用意されたまだ湯気の立つ淹れたての紅茶にも菓子にも手を付けないレンカをちらりと見て、レンカの斜め向かいに座るジョフィエは 「遠慮なく始めてよ」 と言いながら直径三センチメートルほどの花型のジャムサンドをつまみ上げ口に放り込んだ。  ジョフィエが謝りたいと言っている、とエ

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その名はカフカ Modulace 3 2014年10月ベルリン  ヘルムト・ディトリヒはポツダム広場の大通りを見下ろすことができる応接室の窓際に立って、来客の登場を今か今かと待ちわびていた。この高層ビルの最上階に限りなく近いこのフロアに事務所を入れた当初は感動も大きかったが、毎日眺めているうちに窓からの景観にも何の感情も動かないようになってしまった。しかし大切な客を迎えるというだけで急に見慣れた風景が輝いて見える、とヘルムトはひとりでに笑みがこぼれるのを感じた。実際、今日

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その名はカフカ Modulace 4 2014年10月プラハ  レンカが事務所に来たらすぐに話し合いを始められるようにと、エミルは普段の持ち場である受付ではなく、来客のない時は会議室として使われている応接室で仕事をしながら待つことにした。特別何もなければレニはもうすぐ出勤するんじゃないかな、と思いながら時間を確かめると、午前九時五分前だった。レンカの出勤時刻は常に不規則だ。エミルよりも早く来ていることもあれば、午後になってやっと現れることもある。しかし二人とも何となく相手

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その名はカフカ Modulace 5 2014年11月ウィーン  秋のウィーンが好きだ。そんな言葉がプラハからウィーンまでの直行列車を降りたレンカの頭に浮かんだが、瞬時に「春でも夏でも冬でも自分はウィーンが好きだけど」と言葉をつけ足して、人々が行き交うプラットフォームを眺めた。  プラハにはもちろん愛着があるが、ウィーンに来るとプラハでは味わえない解放された空気を堪能できる、とレンカは常々思う。レンカがプラハに住み始めたのは大学に進学した十九の時で、あと四年ほど経てばプラ

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その名はカフカ Modulace 6 2014年11月マリボル  もう十一月とは言え昨日まではまだ大して冷え込んできている気はしていなかったが、朝降った雨の影響か、この日は一日を通して気温が低かった。雨が降ったのは明け方くらいまでだったが、空は午後になっても曇っている。スラーフコ自身はこんな天候はあまり好きではなかったが、やっと再就職が決まった安心感を胸に抱いている今は、どんな空模様でも「晴天」と言い表してしまいそうだった。  ドラヴァ川のほとりで、帰宅する前に朗報をマー

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その名はカフカ Modulace 7 2014年11月フランクフルト・アム・マイン  屋外に面した窓は一切設置されていない地下にあっても工房の空調設備は行き届いており、この空気の重さはどう考えても自分の目の前で腕を組んで宙を睨んでいるラーヂャから放出されているんだろうな、とルノワールは落ち着かない気分でラーヂャから一メートル半ほどの距離を置いて座っていた。  広い工房の中ではラーヂャとルノワール以外にも従業員が数名、それぞれの持ち場で働いていたが、あえて二人のほうには近づ

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その名はカフカ Modulace 8 2014年11月プラハ  明日から全員移動なんだから今日は早く切り上げようとアダムが言って、それならちょっと練習に行こうかなとエミルが言って、あんまりジョフィエとおばあ様に寂しい思いをさせないでねとレンカが言って、この日は三人とも普段よりずっと早めに事務所を出た。それからレンカはアダムの車に乗って自分のマンションに寄ってもらい、移動のための荷物をまとめると、またアダムの車に乗ってアダムの自宅へ向かった。  そして今、レンカはソファの上

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その名はカフカ Modulace 9 2014年11月ワルシャワ  昼間は晴れていたのに、雨が降りだしてしまった。週末もずっと雨の予報が出ている。普段から家を空けることが多いティーナは週末だからと言って郊外へ飛び出して行って休日を楽しむ習慣はなく、どこか屋根のある所で訓練でもするかな、その時間が取れればの話だけど、と思いながら窓の外を見やった。  今ティーナが座っている大学の研究室は彼女一人に与えられた一室で、ティーナは「私程度の軍階級と学位で個室なんて、やっぱりICTY

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その名はカフカ Modulace 10 2014年11月グラーツ  小一時間ほどバスに揺られてグラーツに降り立ったスラーフコは「たった七十キロばかり北上しただけなのにマリボルよりも気温が低いな」と心の中でつぶやき、薄曇りの空を見上げた。  日曜日のバスの中は思いのほか混んでいて心なしか埃っぽかったが、電車は何となく使う気になれなかった。新しい職場で宛がわれたばかりの車もあったが、それを私用で乗り回すのは気が引けた。  ヴクは週末にも不定期に出勤するが、マーヤとスラーフコは

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その名はカフカ Modulace 11 2014年11月バンスカー・ビストリツァ  スロヴァキアの中央に位置する街バンスカー・ビストリツァはアダムとカーロイがよく打ち合わせに使っている場所だが、カーロイの住むハンガリーの首都ブダペストから百八十キロメートルほど北上した位置にあり、カーロイは「スロヴァキアはアダムの担当領域だというのに自分のほうが交通の便がいいとは申し訳ないな」と思うことがある。この日も順調に車を走らせバンスカー・ビストリツァに入ったカーロイは「しかしいつも

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その名はカフカ Modulace 12 2014年11月グラーツ  女があの角を曲がるまでは追えていた。曲がった瞬間、気配が消えて、焦って自分も角を曲がってみたが、既にそこにはいなかった。しかし、まだこの辺りにいることは確かだ。そう思ったヴェロニカはその角を曲がったすぐ側の路地から辺りを見張ることにした。  プラハの中では姿を見かけることさえ不可能だったが、プラハから出てくれさえすれば、女をある程度追うことはできる。しかし女は信じ難いほど勘が良く、先週も尾行を始めた瞬間に