その名はカフカ Modulace 12
2014年11月バンスカー・ビストリツァ
スロヴァキアの中央に位置する街バンスカー・ビストリツァはアダムとカーロイがよく打ち合わせに使っている場所だが、カーロイの住むハンガリーの首都ブダペストから百八十キロメートルほど北上した位置にあり、カーロイは「スロヴァキアはアダムの担当領域だというのに自分のほうが交通の便がいいとは申し訳ないな」と思うことがある。この日も順調に車を走らせバンスカー・ビストリツァに入ったカーロイは「しかしいつも自分のほうが先に到着してしまうのは、その地の利のおかげなのか自分が時間に正確なだけなのか、答えは明白だな」と含み笑いをしながら車を止め、いつもの会合場所の側のSNP広場(注1)へ向かって歩き出した。
聖ザビエル大聖堂を左手に広場の中頃まで進み、路地に入って更に百メートルほど先にあるスロヴァキアの伝統料理を出しているこじんまりとしたレストランの裏手に立つと、カーロイはコートのポケットから鍵を出して裏口を開錠し中に入り、誰に遭遇することもなく上階への階段を上った。
アダムが借りている部屋のドアを開け、中に誰もいないことを確認して、「やはり一番乗りだな」と心の中でつぶやいて中に入った。何の変哲もない部屋だが相変わらず掃除が行き届いているところが素晴らしい、と立ったまま部屋の中を眺めているとドアをノックする音がして、四十代半ばほどの中肉中背の男が入ってきた。男は階下のレストランのロゴの入ったエプロンをしている。
「どうも、ニェシテさん、暫くですね。何か召し上がりますか」
と聞く男に、カーロイは笑顔で
「やあ、ユライ君、確かに君のところにお世話になるのは久しぶりのような気がする。ここで食べ散らかされても迷惑だろうから、話が済んでから下でいただくよ」
と答えた。
「ジャントフスキーさん、また遅れてるんですかね。プラハからここまではけっこう長いから、途中渋滞とか事故とかに引っ掛かるのはしょっちゅうみたいですが」
「それもあるだろうが、今日彼は少し遠回りして来るんだ」
カーロイがそう言い終わると同時にドアの外から階段を上ってくる微かな音がした。ユライがドアを開けるとアダムが「よう、ユラ」と挨拶をしながら入って来て、続いてその後ろからサシャが姿を現した。
アダムがカーロイ以外の人物とこの部屋で会っているのを見たことがないユライは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「誰であるのかは何となく分かりますよ」とでも言うような視線をアダムに送り、
「ごゆっくり。お食事のほうは後ほど下でご用意しますんで」
と言って部屋から出て行った。
ユライがドアを閉めると同時にサシャが
「気の利かせ方が素敵だ」
と言うと、アダムは
「そうか?普通だろ」
と返し、一辺の壁に沿って並べてある椅子の一脚を部屋の中央のテーブルの側に持って来て座った。それに倣うようにサシャとカーロイも適当に椅子の位置を動かしテーブルの周りに三人で三角形を作るような位置に腰を下ろした。
カーロイは席に着くと同時に
「ティーナに面白い話を聞いたんだ。サシャと行動しているとアイドルの付き人になった気分になる、とね」
と楽しそうに話し始めた。カーロイの言葉にアダムは眉を上げ、サシャを横目で見た。
「どうも人が動けないのをいいことに、”ティモフェイェフ伝説”を作って吹聴した人間が多くてね、自分の倉庫の点検に行くだけで管理を任せている連中にアイドル同然の扱いをされるんだ」
「それは何とも居心地の悪そうな話だな」
「だろう?だからさっきのあの男くらいの対応がさっぱりしていて気持ちがいい。自分の家を使われるんだから『この新顔は誰なんだ』と騒いで当然なところだが、それさえもなかったな」
サシャは笑いながら話してはいるが、それだけではないのだろうな、とアダムは思う。「伝説の一人歩き」だけでは、こんなに長い期間ほぼ不在のままこのような大人数の圧倒的な信頼を保つのには無理がある。これはやはり、サシャが有する唯一無二の人格のなせる業なのだろう。身近なところでいくと、レンカも例外ではない。レンカがサシャに初めて会ってから共に過ごした期間は半年あるかないかで、その後自由に会うことが叶わなくなったというのに、レンカのサシャへの傾倒ぶりは知り合った頃から現在まで揺るぎないものに見える。
サシャからレンカへ思考が移り、この日グラーツで「スロヴェニアの優男」と会っているはずのレンカのことは努めて考えないようにしていたアダムは顔をしかめた。それから気を取り直すかのように目を上げると、楽しそうな顔をしたカーロイと視線がぶつかった。
「カーロイ、お前はまた何か俺をからかうネタを思いついたみたいな顔をしているな」
「そんなことはない。君はほとんど無表情なのに、なぜか私には昔から心の動きが読み取りやすい人物だ、とだけ言っておこう」
「それなら今、俺から何を読み取ったか、言えるか?」
「面会の相手は何ら危険のない人物で、護衛は充分すぎるくらい付けたんだろう?心安くしていたまえ。それとも君は彼をもっと別の観点から警戒しているのかな?」
返事に窮しているアダムの代わりにサシャが声を立てて笑い出した。
「君たちは本当に変わらないね、俺が不在の間もずっとこんな風に過ごしていたのかい?十年以上も君たちの会話を拝聴できなかったとは、改めて損をした気分になってくるな」
「それなら今から取り戻せ。こんなくらだん話ならいくらでも聞かせてやる」
「こんな調子だからユライ君はいつもどのタイミングで私たちの食事の支度を始めたらいいかと悩んでいるんだ。我々がどう足掻いても彼の悩みは解消されないかもしれないが、そろそろ本題中の本題を始めようじゃないか」
そう言うとカーロイはテーブルの上で手を組んで少しアダムのほうへ身を乗り出した。サシャも左手で軽く頬杖を突き、アダムのほうを見た。二人の動きとは対照的に、アダムは椅子の背に身を任せ腕を組んだ。
「俺を責めるな。こっちが条件を飲まずしてディトリヒは一銭も出さんぞ」
「出すとなったら大盤振舞だからね、あの男は。しかし、条件を飲んだふりをしてこちらの良いように進める、という選択肢は考えられないんだろうか」
「そんなもん、すぐばれるぞ」
「俺もディトリヒのわがままよりもカーロイの言い分のほうが理に適っている気がするし、既にカーロイは全て計画済みで君たちのところの万能君を配置したんじゃないのか」
「少々遠回りになってもディトリヒが要求するようにオーストリア経由でドイツに入るっていうのは、お前らにとってそんなに効率が悪いのか」
アダムが交渉に当たったヘルムト・ディトリヒとの商談は成立したが、購入物の受け入れに際してディトリヒは「物品の輸送はスロヴァキアとチェコは通過しないこと」を条件とした。それは今回の購入物が元々はスロヴァキアとチェコの間で密輸されるはずの品だったからで、ディトリヒは「運送中に彼らに気が付かれるというシナリオは避けたいからね」と言った。
カーロイはアダムを見つめたまま
「彼の気持ちも分からないでもないが、よりにもよって密輸に失敗した張本人たちに何の接点もない私たちの運搬物が何であるのか嗅ぎつけられるなんてあり得ないし、スロヴァキアを通過できるとなったらいろいろと安心できる」
と話を続けた。
「スロヴァキアでは他の国では信じられないようなものが合法だったりするしな。だがチェコに入った途端、それは通用しなくなる」
「そこは君が何とかするだろう。とにかく、目的地が南ドイツのどこかだって言うのならディトリヒの提案も納得がいくが、今回の受け渡し場所はケムニッツなんだろう?どう見てもルーマニア、ハンガリー、スロヴァキアでチェコの流れが妥当だ」
「もう一つ考えられるのはスロヴァキアを南から北に縦断してポーランドに入ってドイツに向かう手だが、ティーナは今、ほとんど動けないんだろう?」
「ティーナ自身はポーランド国内に特別多く人間を置いてるわけじゃない。あいつが強いのはやっぱりバルカンだろ。だからポーランド経由にするとしても俺の情報屋を送りこめば済む話だが、その前にスロヴァキアのケツを突っ切る、という時点でディトリヒの条件に反するな」
「彼の条件を飲んで取引を丸く収めたい気持ちはよく分かるが、彼の計画したルートで、君が『全く問題なし』と思っているとは信じ難い」
カーロイがそう言うと、アダムは腕を組んだままカーロイの顔を見据え、サシャに視線を移し、またカーロイのほうを見た。
オーストリアからドイツに入り、チェコを避けてケムニッツへ向かうとなると、南ドイツでの走行距離が長くなる。そしてその土地はレンカに今回の物品の出どころである密輸妨害の依頼を持ち込んだ組織が幅を利かせている領域だ。レンカの顧客が幅を利かせている土地なのだから、普段なら安全が保障されている地域である、と言える。しかし、今回くだんの物品を運送するのは、少なくとも表立ってはレンカ・ハルトマノヴァーではない。妨害の依頼主自身は物品にもその流れる先にも興味は示さなかった。しかし、見ず知らずの集団が自分たちの関わった密輸品を運んでいると情報を手に入れた場合、そのまま放っておくとは考えにくい。
「通過するからと言って、嗅ぎつけられるとは限らない」
「その台詞をそっくりそのままディトリヒに聞かせてあげたいところだが」
「エフはそろそろレンカがカフカの駒だということを隠さないで活動をしていってもいいんじゃないかと言っている」
「確かにスタヴィがレンカの前に姿を現すようになったのはその計画があるからだ、と俺も理解している」
「スタヴローギンを略すとそんなに粋に聞こえるんだね。私も貴公子君の計画が悪いとは思わないが、とにかく今回は間に合わないだろう。せいぜいレンカのお客さんに暴かれた際に『ハルトマノヴァーの手の者です』と言って信用してもらえる態勢を整えておくくらいか」
「レンカとカフカの関連性を大っぴらにする前に、ぜひともハルトマン夫人の座は解消しておいてもらいたいものだ」
サシャの言葉に、アダムは目を丸くしてサシャのほうを見た。
「一体、どうしたら今の話の流れでそっちに行くんだ?」
「今のところレンカの客でレンカのハルトマン家の中でのポジションを詮索するほど好奇心の強い組織はなかったようだが、レンカがカフカを背負っていると公表した後には、違った興味の持ち方をする人間も出てくるんじゃないのか。その後離婚していたのでは遅すぎると俺は思う。一体君は何をぐずぐずしているんだい?レンカも『アダムさえ同意すれば病院長は今すぐにでも解約してくれる』と言っていた」
「分かれよ、今の状態でどれだけレンカの安全が保障されていると思う?この地位を手に入れてなかったら、レンカはこの八年間で百回は警察の厄介になってたぞ」
「俺は、レンカは既にそんなヘマはしないくらい成長していると思う。君がレンカがハルトマンにもたらした僅かばかりの利益のことを考えているのなら、これからは俺がハルトマンに恩を返していこう。悪くないだろう?実際、ここまで世話になったのだから、ハルトマン側が俺から何も期待していないとも思えない」
「アダム、確かに今の君のレンカとの関係を考慮すると、レンカをハルトマン夫人の座に居座らせ続けるのは、何とも無責任な感じはするね。私は病院長に会ったことはないが、今君たち二人が揃って彼の前に姿を現したら一発で見破るくらいの目は持っていると思う。ふふ、気まずいことこの上ないだろうが、病院長はレンカに同情してすぐさま離婚の話に持っていくだろう」
今日はティーナがいなくて良かったな、とアダムは心の中でため息をついた。ティーナがこの話に加わったら、それ見たことかとアダムを責めたいだけ責めるのだろう。
アダムはしばし黙った後、
「今日は、俺をいたぶる会、なのか?」
と言った。アダムの言葉にサシャは肩をすくめ、カーロイはにたりと笑い、それから口を開いた。
「話を戻そう。ディトリヒの計画したルートでもう一つ問題になってくるのが、ハンガリー国内の移動が長くなることだ。私はそんな長いドライブに付き合っている余裕はない」
「そうなのか?ハンガリー横断と言っても、お前の事業に響くほど時間は取らないんじゃないか?」
「私は貴公子君に別の用事を頼まれている」
アダムとサシャは黙ってカーロイを見た。
「ハーグに箪笥を売りに行ってほしいそうだ」
カーロイがそう続けると、後の二人は何も言わずに顔を見合わせ、それから笑った。
注1
SNPは「スロヴァキア民衆蜂起 Slovenské národné povstanie」の略。民衆による反ファシズムの闘争が1944年に本話の舞台であるバンスカー・ビストリツァで勃発した。
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