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その名はカフカ Modulace 11

その名はカフカ Modulace 10


2014年11月グラーツ

 小一時間ほどバスに揺られてグラーツに降り立ったスラーフコは「たった七十キロばかり北上しただけなのにマリボルよりも気温が低いな」と心の中でつぶやき、薄曇りの空を見上げた。
 日曜日のバスの中は思いのほか混んでいて心なしか埃っぽかったが、電車は何となく使う気になれなかった。新しい職場で宛がわれたばかりの車もあったが、それを私用で乗り回すのは気が引けた。
 ヴクは週末にも不定期に出勤するが、マーヤとスラーフコは大抵それぞれ家の中でできることをしていて、時には一緒に街中を散歩することもある。この日の朝、日曜日だというのに突然「グラーツに行く用事ができた」と告げたスラーフコに、マーヤは不安そうな表情を見せた。マーヤ自身が数ヶ月前に襲われた街だから心配になるのかもしれないが、彼女にとって自分は「一人では何もできない世間知らずの親戚のおじさん」くらいのポジションになりつつあるのではないか、とスラーフコは閉口した。
 ドリャンの落ちぶれ方が噂通りなら、グラーツも自分にとって危険のある街にはなりようがない、そんなことを思いながらスラーフコは約束の場所を目指して歩き出した。そして、今日自分が何のためにグラーツまで来たのかを改めて思い起こし、緊張し始めた。目的の場所へ辿り着くための目印となるハウプト広場のヨハン大公像の側まで来て、しばし立ち止まった。少しここで気持ちを落ち着けよう、まさか自分がこんなにこの状況に狼狽えてしまうとは、と思いながら先ほどのバスの中の埃っぽさを思い出し、比較的汚れが目立ちやすいグレーの上着を丹念に払った。そして再び目的地へ向かって歩き始めた。

 約束の場所には先に到着しているべきだ、とレンカは常々思う。相手が誰であろうと、場を制するのに有利なのは先にその場を陣取っていた方だと頭の中のどこかに書き込まれているのかもしれない。そんなことを考えながらカフェの窓から外を見ていると、六月にレンカが自慢のコーヒーにまったく手を付けなかったことを覚えていたマスターが近づいてきて
「うちは紅茶も充実してますが。カフェインが駄目なんでしょうか?」
と聞いた。
「そういうわけじゃないけど。私はお水だけでも満足なのよね」
「ホットチョコレートも出せます」
「……お茶をいただくわ。茶葉の種類はお任せするわね」
 レンカの注文を聞いて立ち去っていくマスターの背中を見ながら「ティーナの協力者の人って、今まで会った人はみんな人生に対してすごく積極的な感じだったけど、この人は何だか態度も淡々としていて掴みどころがないな」などと思いを巡らせていると、カフェの入口がゆっくりと遠慮がちに開くのが目に入った。
 スラーフコはドアの間から店内に体を滑り込ませると辺りを見回したが、レンカを発見したとたん輝くような笑顔で足早にレンカのほうへ向かってきた。レンカは「当時はこの人の外見なんて気にも留めなかったけど、この姿勢の良さとか特別洒落たものでなくても着こなしてしまうところなんかは、こんな容姿で生まれ落ちたが故に勝手に身に付いてしまう所作なのだろうか」とスラーフコを改めて観察しながら立ち上がった。
 スラーフコはレンカが自分のために立ち上がったことに恐縮するかのような表情を見せながらレンカに近づくと、レンカの右手を両手で包み込むように握った。
 レンカが軽く微笑んで
「お越しくださりありがとうございます。六月はご挨拶もできず失礼いたしました」
と言うと、スラーフコは
「いえ、こちらこそ六月はいろいろ失礼があったかと」
と返し、レンカが腰を下ろすのを待って、上着を脱いでレンカの向かい側の椅子の背に掛け、その席に座った。
「まさか貴女からご連絡をいただけるなんて、正直夢にも思ってみませんでした」
と顔をほころばせるスラーフコを見て、レンカは「一体自分はこの人にとってどういう存在なんだろう。単身赴任で寂しい思いをしていた時に唯一定期的に会っていた人間だから、思い入れが強いのだろうか」とスラーフコの少なからず感傷的な態度に引きずられないよう心の中で距離を置きながら微笑み返した。
 スラーフコはレンカの紅茶を持ってきたウェイターにエスプレッソを注文すると、レンカのほうへ向き直り
「ナスチャ、こんなところにお一人でいらして、大丈夫なのですか?」
と声を潜めた。レンカは心の中で天を仰ぎ、「この期に及んでその名で呼ぶか」と目の前が暗くなる思いがしたが
「ご心配なさらず。自分の身の安全の確保は怠ってはおりません」
とだけ返した。ティーナの協力者が経営する店内で、ウェイターも店の隅に座ってコーヒーに舌鼓を打っている客も入口の側のテーブルで談笑している二人連れも皆ティーナとアダムから遣わされた人間だという状況で、レンカに何の危険が及ぶというのだろう。もちろんスラーフコにはそのような事実を感じ取る能力はない。この人数はスラーフコ相手に大げさなのではないか、とレンカはアダムに注意してみたが、アダムは「俺の好きなようにさせろ」とだけ返した。
 スラーフコの注文を持ってきたウェイターが立ち去るのを待って、スラーフコは再び口を開いた。
「六月に十三年ぶりに貴女をお見かけした時は最初、同じ人だとは気が付きませんでした。表情も振る舞いも全く別人のようでしたから。……でも、あれは演技だったのですよね?」
「どうでしょう?もう何年もあのような態度でこの仕事をしていますから、自分では判断が付きかねます」
「でも今日のナスチャは、昔のように笑っている。これが演技だとは思えません」
 私は今まさにお芝居の真っ最中なのだけどね、と思いながらレンカは表情を少し困ったような笑いに変化させた。スラーフコは今やっと思い至った、という顔をして
「申し訳ない、既に貴女のご本名を存じ上げているというのに、昔使っていたあだ名でお呼びしてしまいました」
と謝った。レンカは
「いえ、このような公の場で私の名を口にされるのは逆に避けていただきたく存じます」
と返した。そして、名前など呼び合わなくても会話は続けられるではないか、と思いながらも
「私も貴方のことを再びあの頃のようにレオシェックとお呼びするのは少々気恥しいものがあるのは事実ですが」(注1)
と話を合わせるように笑って付け加えた。そんな名前で呼び合っていた頃は当然このような畏まった話し方はしていなかったが、今のレンカにこの姿勢を崩そうという気は全く起きなかった。今日はお友達ごっこをしにここまで来たのではない。
 レンカは手元のティーポットに目を落とし「少し置きすぎたかな」と思いながらティーカップに紅茶を注いだ。そしてまだ湯気が立つほど熱いのを確認すると、再びスラーフコに視線を戻した。
「今日、貴方をお呼び立てしたのは、六月のお礼を申し上げたかったからです」
「そんな、お礼を言っていただくようなことではありません。あれを手に入れたところで、私には渡す当てがなかった。そこへ貴女が現れたものですから、まるで押し付けるかのように託してしまった。おかげでやっとあの組織から出ることができましたし、礼を言いたいのはこちらのほうです」
「その後、何か危険なことは?」
「私も拍子抜けしたのですが、どうも私は復讐の対象にもならないほど些末な存在だったようです」
 そう笑いながら言うスラーフコを見て、レンカは「つまり、イリヤ・ドリャンの恨みを一身に集中させたのはこの私だったのだな」と心の中でつぶやいてから、
「しかし、これからどうなるかはまだ分かりません。彼は権力も財力も失いましたが、未だ体は自由です」
と返した。スラーフコを呼び出す前に調べさせた協力者の話では、スラーフコはイリヤの秘書だった女とマリボルの街を出歩いているという。一体どうしたらそんな油断ができるのか、とレンカはその話を聞いて呆れた。
 レンカはスラーフコの目を見据えながら、掌を下に向けて静かに左手をテーブルの上に置いた。
「これは、お礼の気持ちの、お印のようなものです」
「何でしょう?」
「貴方が六月に渡してくださった証拠品の、コピーです」
 スラーフコは不審そうな顔をしてレンカの目を見た。
「保険のようなものです。今すぐ貴方に公開してもらいたいだとか、拡散してもらいたいだとか、そういった話ではありません。もちろん物理的攻撃をかわすには何の効力も発揮しないでしょう。ただ、持っていてほしいのです。何かの役に立つかもしれません、あの男に抵抗するに当たって」
「……良いのですか?私のような者に、そのようなものを持たせても」
「これは、コピーです。しかし、無駄遣いはなさらないよう願います」
 レンカがそう言うと、スラーフコはテーブルの上に置かれたレンカの左手に右手を重ねた。レンカは「南に行けば行くほど、人と人の距離が近い気がする」と冷めた思いを抱きながらするりとスラーフコの右手の下から左手を抜き取った。スラーフコの右手の下には、小さな包みだけが残った。
 スラーフコはゆっくりと包みを握った右手を動かし、慎重にジャケットのポケットに入れた。そして再びレンカに微笑みかけ、口を開いた。
「実は一年ほど前、プラハまで貴女を探しに行ったのです」
 少しはにかんだ様子でそう言うスラーフコを見つめながらレンカは「そう言えば、この男はそのことを私が知っているということを知らないんだった」と心の中で独り言ちてから
「そうだったのですか。なぜ急にそのようなことを?」
と尋ねた。
「当時プラハから持ち帰った書類の中から、貴女が書き残してくださったメッセージが出てきたのです。短文で、謎かけのような文章でした。何を書かれたのか、もう覚えていらっしゃらないかもしれませんね」
「もう十三年も前のことですから、少し難しいですね、何を思って何を書いたのかを思い出すのは」
「そのメッセージが書かれた紙片を手にプラハへ向かったのは良かったのですが、貴女には会えませんでしたし、帰る道中、そのメッセージも……なくしてしまったのです。もう何が書かれていたのかも、うろ覚えです」
 さすがに「奇怪な車内販売員に奪い取られた」とは恥ずかしくて言えないのだろう、と声を立てて笑い出したいのを抑えながら、レンカは
「二十歳そこそこの小娘の書き散らしたものなど忘れてくださって結構ですわ。もし書かれていた言葉を覚えていらっしゃったら、とんだ恥をかくところだったでしょう。きっと、大して面白くもない冗談が書いてあったのでしょうから」
と言って大きく微笑んだ。
 スラーフコはレンカの笑顔を見て嬉しそうに
「また、お会いできますか?」
と聞いた。レンカは少し首をかしげるようにして
「ご縁があれば」
とだけ返した。そして、二度と会うことはないと思っていた人物が自分を探しに来て、その人物を懸命に避けていたのに結局自ら呼び出すことになってしまったのだから、本当に妙な縁があるのかもしれないな、と思いながらレンカはやっと程よく冷めた様子の紅茶に手を伸ばした。


その名はカフカ Modulace 12へ続く


『Poměrně krátký vzkaz, adresát je kníže Myškin』 24,5 x 34,5 cm 水彩
1月に描いてnoteではお披露目する機会を逸していた一枚。


注1)
チェコ語には男性名Levから派生したLeošという名前がありLeošek(レオシェック)はその愛称形の一つ。
……覚えていらっしゃるだろうか、この二人が2001年当時、ドストエフスキーの『白痴』の主人公とヒロインの名で呼び合っていたことを。



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