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その名はカフカ Kontrapunkt 8

その名はカフカ Kontrapunkt 7


2014年6月リュブリャーナ

 レンカとアダムが出かけている間、エミルはティーナが唯一リュブリャーナに置いている協力者のルツァと滞在先のマンションで待機していた。エミルはレンカのイヤホンから流れて来る音声を聞きながら、ルツァと情報交換や滞在している建物の安全管理の詳細確認などに勤しんだ。ルツァはアダムやティーナと同年配の気さくな男で、エミルとは専門分野が共通していることもあり、二人は会ってすぐに意気投合した。帰って来たレンカとアダムに、ルツァの素晴らしさを嬉しそうに語るエミルを見て、レンカは
「誰とでもすぐ仲良くなれるって、羨ましいわね」
とつぶやいた。エミルは
「誰とでもっていうわけじゃありません。そんなこと言って、レニは本当は全然羨ましくないくせに」
と返した。レンカがあまり多くの人と親しくなる必要はないと思っているのは事実だった。
 出かけていたレンカとアダムよりエミルのほうが報告が長くなったため、訪問についての詳細の確認は翌朝に持ち越しとなった。この街に来てまだ数日しか経っていないのに、マンションの中央の大部屋に三人で集まって寛ぎながら作戦会議をするのに味を占めてしまい、レンカはプラハに戻ってから会議室として使っている応接室が狭く感じるのではないか、と気の早い心配をし始めた。
 エミルはルツァにもらったという、昨晩のレンカとアダムの訪問先のメンバーの名簿をノートパソコンに表示して二人に見せた。
「すごいですよ、この名簿の写真のクオリティ。隠し撮りとは思えない。全部の写真に名前がついてますよ。ざっと昨日会った人たちを上げてもらえますか?」
そうエミルに言われて、レンカとアダムは部屋の中央の低いガラスの丸テーブルに置かれたパソコンのモニターを興味深げに見つめた。向こうのボスに部下の紹介などしてもらう必要はない、すべての情報をこうして手に入れることができるのだから、とレンカは昨日のやり取りを振り返りながら名簿を眺めた。
 アダムは画面をスクロールしながら数名のメンバーを通った後、エミルに
「こいつは覚えておけ、こいつがあれだ、昔プラハで世話になった奴だ」
とスラーフコ・マヴリッチの写真を示して楽しそうな声で言った。エミルは興味津々、といった様子でスラーフコの写真に見入った。
「なんか、すっごい美男ですね」
「だろ?」
「職業選択、間違ったんじゃないですか?俳優とか、演技ができないならモデルとか、いろいろ道はあったんじゃないですかね」
「そうだな、悪いことをしたいのなら、結婚詐欺師、とかな」
「いや、結婚詐欺師も外見より演技力と話術ですよ、やっぱり」
「あなたたち、その話、全然面白くないわよ」
 一人冷めたように口を挟んだレンカに、エミルは目を輝かせて
「レニ、あの頃レニだけがこの人に会ってたんでしょ?レニはときめかなかったんですか?こんな見目麗しい男性、そうそう転がってないですよ」
と聞いた。レンカはエミルの目を真っすぐ見据えると
「あなたがそんなくだらない発想をする人だったとは今まで気がつかなかったわ。こんな作り物みたいな優男、私が興味を持つと思う?」
と言い放った。実際、幼いころから憧れていたカーロイが引き連れてきたサシャ、ティーナ、そしてアダムと知り合ったばかりの当時のレンカは、その四人がもたらした新たな世界に夢中になっていて、ファッション雑誌から抜け出してきたような男を気にかけている暇はなかった。
 エミルは「レニが僕の目を見て言うってことは、本当のことを言ってるんだな」と心の中でつぶやいた。
「それで、昨日その場にいたんですね?で、レニに気がつかなかった、と」
「どうやらそうみたい」
「ちょっと信じられませんね。13年経ってるって言っても、五歳が十八歳になったのならまだしも、二十一歳が三十四歳でしょ?分かっていないふりをしているという可能性は?」
「それこそ、そんな演技のできる人じゃないわ」
そう返事をしながら、レンカは「もしかすると、時間の問題かもしれないな」と思った。やはりこの仕事はできる限り早く仕上げて、この街を立ち去らねばなるまい。
 エミルはどうやらスラーフコの話題が気に入ったらしく、更に
「お二人は偽名を使ってたんですよね?ちなみにレニは何て名乗ってたんですか?」
と聞いた。レンカは素っ気なく
「今さらどうでもいいでしょ、そんなこと」
と答えたが、アダムも
「それは俺も興味があるな」
と言って、レンカの顔を見た。レンカは馬鹿馬鹿しいとでも言うように二人から顔をそむけると
「死んでも教えてあげないわ」
とだけ言った。
 スラーフコと初めて会った日、レンカは鞄の中にドストエフスキーの『白痴』を入れていた。お互いに本名は言えないから、呼び名を決めようということになって、では『白痴』の登場人物から取ってはどうかとレンカが提案して、その日から二人の間では、レンカはナスターシャ・フィリポヴナに、スラーフコはレフ・ニコラエヴィチとなった。こんな話、恥ずかしくて誰にできると言うのか、とレンカは思い出す度に自分が赤面していないか心配になる。
 エミルは暫くレンカの顔を観察していたが
「今パソコンで開いている資料、全部お二人に目を通しておいてもらいたい物ですから。僕はちょっと街の散策に行ってきます」
と言って立ち上がった。アダムは驚いた様子で
「おい、どこに行くんだ」
と尋ねた。エミルは
「今日入っている予定はお昼からでしょう?今日を逃したらこんな暇のある日、もうないかもしれませんから、今のうちに街の中心部だけでも見ておきます。せっかく来たんだから、ちょっと観光みたいなことをしておきたいんです」
と言いながら、素早くベルトにハンドガンを装着し、それを隠すようにシャツを羽織ると、細かな通信機器を胸ポケットに収めた。
「僕の外見なら修学旅行中の高校生に見えること間違いなしです」
と笑うエミルに、アダムは
「武装してる高校生って、どうなんだ。気をつけろよ、お前は話し始めると大人だということがばれるからな」
と注意した。エミルは笑いながら伊達眼鏡を押し上げると
「ご心配なく。すぐ帰ります」
と言って颯爽と部屋を後にした。
 アダムはエミルが玄関ドアを閉めるのを待って
「あいつ、なんであんな必要もない眼鏡をかけてるんだろうな」
とつぶやいた。レンカは
「何かかけてないと、見えすぎてしまう気がするんですって。ほとんど効果はないみたいだけど」
と返し、一呼吸おいてから言葉を重ねた。
「私、エミルの目を見てると嘘がつけないの。物理的に物がよく見えるだけじゃなくて、心の中まで見られている気がして、エミルに隠し事をしたいときは目をそらしちゃうの。それで何か隠してるって、結局ばれちゃうんだけど」
「俺はそんなこと感じたことないぞ。無神経なのかな」
「違うわ、アダムは強いのよ。私にはエミルの目が持つ能力に抵抗できるほどの強さがない」
アダムは、そんなもんか?と言いながらエミルからの宿題を片付けるべく、再びパソコンの方へ向き直った。

 リュブリャーナの中心部まで行けるバスは最寄りのバス停から出ていたが、あえてエミルは一つ前のバス停まで歩いて乗ることにした。常に行動パターンが定まらないようにしておいたほうがいいだろう、と思ってのことだった。外は既に暑くなり始めていた。観光とは言っても、正午までには戻らなくてはならない。そんなに時間はなかった。エミルは「とにかくリュブリャーナの観光関連の写真でよく見る竜の像のある橋まで行って考えよう」という計画だけを抱えて街の中心までやってきた。
 無事竜のいるZmajski mostに到着し、お城見学の時間はないなと思いながらリュブリャーナ城を尻目にもう一つの名所である三本橋を観光客の流れに身を任せ渡り終えたところで時計を見た。何かをしっかり見学している時間はないが、まだ戻る時間でもない。結局リュブリャニツァ川沿いのカフェで休憩することにした。
 どの店もある程度混んでいたが、エミルは見える範囲内で一番良い印象を与えたカフェのテラスの席に座ることにした。座ろうとして、テーブルを二つ挟んだ先に見覚えのある顔を発見した。何と、こんなところでレニのイケメンに遭遇するとはね、とほくそ笑みながらエミルはスラーフコのほうに背を向けるようにして席に着いた。スラーフコは一人の女と同席していたが、彼女も絵に描いたような美人だった。エミルは近づいてきたウェイトレスにコーヒーを注文すると、背後の二人の会話に耳を澄ませた。もちろんエミルはスロヴェニア語は分からない。同じスラヴ語とは言え、チェコ語とはかなり違う。たまに似たような言葉が使われて理解できたり、違う言葉でも考えれば近い意味を思いつくこともあるが、そんなことをしている間にも会話は先へ進んでしまう。エミルの聴力には別の使い道があった。
 エミルは言葉の理解よりも、会話の持つ雰囲気、話し手の声音、言葉のスピードなどを感じることを優先し、そこから話がどのようなカテゴリーに属するかを読み取り、時にはさらに細かいテーマを絞り込み、会話の最後まで聞き取れる場合はどのような結果に落ち着いたかまで理解することができた。
 スラーフコと女の会話を聞きながら、エミルはまず「色恋沙汰じゃないのだね」と思った。もしかするとスラーフコは外見負けして、そういったことには縁遠い人生を送っているのかもしれないな、とも思った。仕事の話のようだけれど、二人は同僚ではない。女のほうが何かを要求している。スラーフコはどうして要求に応えられないかを論理的に説明しているようだけれど、女は聞く耳持たず、と言ったところか。そこまで聞き取ったところで、ポケットの中の電話が一瞬振動した。
 耳の注意は二人の会話に向けたまま、エミルは電話を取り出した。妹のジョフィエからのチャットだった。
『美味しそうなの、見つけた』
 本当に仕事中だったら放っておくのだが、今の状況は果たして仕事中と言えるのだろうか。単なる興味本位の盗み聞ぎではないか?
『やめてよ、兄ちゃん怒るよ』
『怒ってもエミルここにいないし』
 スラーフコも何だか少し腹を立てているような声になっている。もちろん二人とも終始ささやくような声で話しているが、エミルの耳は全く問題なく聞き取ることができた。
『ばあちゃんは?家にいないの?』
 ジョフィエは祖母が在宅していれば大人しくしていた。騒ぎを起こすこともなく、きちんと学校にも行く。祖母の存在は彼女の精神安定剤のようなものだった。五月に銀行の仕事で徹夜した後、早朝エミルが帰宅すると、祖母は仲良しのマダムたちと温泉に出かけており、ジョフィエはハッキングで手に入れたばかりの人権保護団体を装った武装集団の外部金融書類を熱心に読みふけっているところで、エミルは真っ青になった。そんなことがあったばかりで家を空けなくてはいけなくなったエミルは、祖母に「僕がスロヴェニアから帰ってくるまで温泉は禁止だよ」としつこく何度も念を押した。
 ジョフィエは返事をしなかった。女もスラーフコに苛ついた言葉を返している。エミルは妹と話したいと思ったが、こんなところで外国語で通話を始めるのは避けたかった。それにスラーフコに聞こえてしまうのもまずい。スラヴ語圏の人間が約十カ月もチェコで過ごしたのだ。今でもチェコ語はかなり理解できるのではないかと思われた。
 結局、エミルは盗聴のほうを諦め、ウェイトレスが注文を持って来ると同時に支払いを済ませ、コーヒーには手を付けずに店を出た。視界の隅に、スラーフコと話していた女も席を立ったのが映った。

 スラーフコは女が立ち去っても、暫く顔をしかめてその場に座っていた。そしてまず、毎朝同じカフェに通い続けるという間違いを犯した自分を責めた。これでは「私を見つけたかったらこちらへどうぞ」と吹聴しているようなものだ。この朝も「毎日ここなのね」と言いながら、女は許可も乞わずにスラーフコの目の前に座った。女は数年前イリヤの秘書として現れ、その後内部情報を盗んで逃げたスパイだった。女はイリヤにはしっかり痛い目に遭わされたというのに、性懲りもなくリュブリャーナに現れたという事実にスラーフコは驚いた。
 女が勤めるのは旧ユーゴの時代から続く組織で、スラーフコが属する組織が成長した今ではリュブリャーナ市内でも、スロヴェニア全土でも二大犯罪組織としてお互いに足の引っ張り合いをしていた。社会主義時代から続く、とは言え、もちろんその頃資本主義の国々で発達していたマフィアやギャングなどとは違った様相で、組織の原型はいわゆる犯罪組織や非合法武装集団とは表現しがたいものだったが、現在でもこのように失態を犯したスパイを使い続けるという締めの甘さはその頃からの伝統なのだろうか、それともこの女だけは特別扱いなのだろうか、とスラーフコは考えを巡らせた。しかし、失態を犯しても勤め続けているのは自分も同じか、と思った瞬間、スラーフコは一気に暗い気持ちになった。
 女の要求には応えられなかったし、何よりもスラーフコは彼女のような、自らの美しさを自覚していてそれを利用できると思い込んでいる人間が嫌いだった。スラーフコ自身も毎日鏡は見るし、幼いころからの周囲の評価で、自分の外見がどのように他人に映っているのかは認識していたが、そこに利用価値を見出したことはなかった。逆に人々は外見以外の自分を見ようとしない、という事実に失望する機会のほうが多かった。
 スラーフコは一つ大きくため息をついて、久しぶりの遅刻だな、と思いながら席を立った。

 エミルはバス停まで歩きながらジョフィエに電話をかけた。
「ジョフィ、ばあちゃんは家にいないの?学校はどうした?」
「もう六月だよ、学校も行事ごとばっかで行かなくても欠席扱いにならない。ばあちゃんはちゃんと家にいるよ」
「じゃあ、何なの、あの脅しのようなメッセージは」
 ジョフィエが「美味しそう」と言えば、ハッキングの獲物を見つけたとしか考えられない。
「ふざけてみただけ。エミル、上司の用事でしか電話してくれないから」
「兄ちゃんはプラハにいても仕事でほとんど家にいないじゃないか。何が違うの?」
そう問いかけても、ジョフィエは答えなかった。エミルは話題を変えようと、別の質問をすることにした。
「ねえ、ジョフィはばあちゃんにお土産、何がいいと思う?」
「スロヴェニアなんて行ったことないから分かんないよ。どんなとこ?」
 ジョフィエの質問に、数日間マンションに籠っただけだから自分もこの国については何も知らないな、と思いながらエミルは
「首都はプラハよりずっと小さいよ」
と答え、そして
「ちょっと街に出ると、すぐ知ってる顔に出会うくらい小さい」
と笑って付け加えた。


その名はカフカ Kontrapunkt 9へ続く


『Idiote, přesto, přesto tě miluju』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆、色鉛筆




【おまけ】
下の写真は私の宝物の一つ、チェコ語訳版ドストエフスキー著『白痴』です。
2005年に、Lidové novinyという新聞社が世界の名作文学の古い翻訳をシリーズで出版したときのもので、ちょうど私が『白痴』を読んでみたい、と思ったタイミングでの発売でした。レンカが鞄の中に入れていたのは2001年のことですから、これとは違った出版だった、ということになりますが。

この一冊で『白痴』完結です。表紙の「20」は、この世界文学シリーズの20番目に出された、という意味です。


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。